11月17日(土)より公開されているタナダユキ監督作品『ふがいない僕は空を見た』*を鑑賞した。新聞各紙の映画評にも取り上げられているように、邦画の中では本年度有数の傑作である。
(以下に於いてストーリーへの言及があることを予めご了承いただきたい。)この映画は、不倫関係にある男子高校生と専業主婦を主人公にした、人が生きているということのかけがえのなさを印象付ける作品である。高校生の母親は助産師であり、その仕事ぶりと、吐露する想いからは、人が生まれ生きているということそのこと自体への無条件の肯定を感じさせ、また主婦は姑からの強い初孫の期待を受けながら、苦痛を伴う不妊治療を受けている。人が生まれること、生きることに在る価値を、想起させる作品である。
一方で、これは私が特にこの場でこの映画を取り上げる意味にも関わるが、作中における2人の主人公の不倫関係は、ある時点までひたすらにセックスで描写される。主婦はアニメのコスプレを趣味としており、映画の冒頭は2人のコスプレでの行為である。そして2人のセックスは、その本源的な目的であるはずの生殖とは関わらないものであり、不妊治療からの逃避であったり、性欲を満たすためであったり、後にはただ愛し合うが故のものであったりする。そしてそれが、上述の、人間が生まれること生きることそれ自体と切り離されてしまっているところが、登場人物たちが生きる上で、どうにもならない切なさとして感じられる。
様々な困難や苦痛にぶつかりながら人が生きていくということを描いた作品であり、私は友人にも勧めたいと思いながら劇場を後にした。高校生を主人公とし、その友人も重要な登場人物であり、学校の様子を描写することから、高校生であってもこの映画から考えることは多いであろう。しかしながら、この作品をわざわざ文化政策の講義と関連付けられたこの場で話題にしたいのには、理由がある。それは、この作品が、日本のレーティングでは最も厳しいR18+の指定を受けているからである。かなり長く露出の多いセックスシーンがある為に指定を受けることは仕方のないこととも思えるが、一方で高校生を主人公とし、高校を舞台の一つとして展開される含意の多い物語でありながら、高校生の年齢にあたる人々の鑑賞を阻んでいることは、非常に勿体のないことであるように私は考えている。
ホームページによると、映倫(映像倫理委員会:映画関係者の自主的な団体であるが、実際には規制や司法判断に対しての自主規制の役割を担うと考えられる)は「表現の自由を護り、青少年の健全な育成を目的」**としている。この映画における性的描写もまた、18歳未満の人々が観ると彼らの「健全な育成」の障害となるものとの審判であろう。しかしながら一方で、上に長々と私が映画に関して素人の立場から論評を試みたように、この作品のテーマは、人間が生まれること生きることそのものに関わっており、高校生が鑑賞してもそれに関してより思索を深められそうなものであり、性的なシーンもまた、上にも言及したように、登場人物たちの生き方を考える上での重要な描写である。この映画を高校生に見せるために、監督に性的なシーンを削った上で完成品として世に出すことを提案したら、それは却下されるであろうし、私もそのような改変が望ましいものとは思わない。更に言えば、そもそもこの作品に於いて高校生がセックスに関わることは、決して非現実的な描写ではなく、それが現実にも起こり得ることだからこそ、ここで描かれていると想像できる。であるとするならば、性的表現を取り上げての年齢制限が実際に「青少年の健全な育成」に寄与することができるかは疑わしい。そうでなくとも、少なくとも彼らが近い将来に於いて直面する問題に対して、何らかの含意があると考えることもできるのではなかろうか。
私はこの映画を全年齢に開放すべきだと訴えかける積りはないし、性的な描写を含む全映画を高校生に開放せよと訴えている積りも全くない。ただ、私自身が大変感動し、多くの人に薦めたいと思った映画に対し、その中の表現を巡って年齢制限がかけられており、そしてその表現が、作品の重要な意味を与えているものであると考えた為、ここで問題を提起したものである。この映画に年齢制限をかけることは、健全な「青少年」の育成の為かもしれないが、それは、その育成の対象となる人々の、人生に関する思索の機会を奪っている点で、少し勿体ないと、私は思うのである。
*2012、日本映画。テアトル新宿他で公開中。劇場公開版はR18+指定。二次市場向けの再編集版ではR15+指定を受けた。
**映倫ホームページ。http://eirin.jp/。2012年11月21日参照。
(早・宇佐美)
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