初めて投稿させて頂きます。Xenakis48です。
Xenakisは、ギリシャ出身で主にフランスで活躍した建築家、作曲家のヤニス・クセナキスIannis Xenakisにちなみ、48は、彼の佳曲ST48と某国民的アイドルにかけています。
どういうことを書けばいいのか悩ましいところですが、今回は、前の記事で宇佐美さんが書いてらっしゃる「表現規制」のお話と近しいテーマになりますが、タイトルにもある通り「文化と健康」についてあまり深入りしないように(笑)、簡単に考えてみたいと思います。
2007年、ドイツ北部シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州都キールに置かれた「治療・健康調査センター」のReiner HanewinkelとGudrun Wiborgが、テレビでの喫煙シーンが喫煙率に与える影響を考察した論文„Verbreitung des Rauchens im deutschen Fernsehen“ を発表しました*。彼らによると、調査対象となった2005年当時、ZDFをはじめとしたドイツの主要なテレビ局が放映する番組全体のおよそ45%が1回以上の喫煙シーンを含んでいたそうです。続けて彼らは、喫煙シーンを多く含む映画を見た子どもの喫煙のリスクが高まることを指摘した研究を引き合いに出し、テレビでの喫煙描写に見直しを迫ります**。
日本でも同様の問題については長く議論が行われており、1998年にJTはテレビでの広告を終了しました。しかし日本禁煙学会の調査によれば、現在でもテレビ番組では多くの喫煙シーンが喫煙という行為を否定しない形で登場しており、これが喫煙を正当化させ喫煙開始の誘引になるという影響を与えている、とのことです。また、アメリカでは2007年にディズニーグループを初めとする映画会社が喫煙シーンをすべての映画から排除することを決定しました。
さて、これら規制の動きはどれも「喫煙行為が不健康であること」を根拠にしています。確かに「子ども」を引き合いに出されてしまうとなかなか反論しづらいところがありますが、それでは「不健康な行為」に至らせてしまう可能性のある表現はおよそ規制されるべきなのでしょうか。たとえば、殺人を扱った刑事もののドラマや暴力的な不良が主人公のドラマも、それが「不健康な行為」を誘発するのであれば規制されるのが正当なのでしょうか。確かに、ドイツでのナチスに関する法律のように「それが否定的描写であれば良い」という観点から規制されればそれらの表現がメディアから完全に駆逐されることはないでしょう。ですが、すべての犯罪者が法の裁きを受け更生し、すべての不良が優れた教師の指導の下に社会化されていく物語に満ちた世界、すなわちすべてがハッピーエンドの世界(タバコを吸っている「悪者」は禁煙して「真人間」になるか肺がんでとっとと死ぬ世界)、僕にはなんだか不気味に思えます。
これに対して、禁煙や分煙の推進派を非難する人々は、しばしば「喫煙行為が伝統文化である」と言ってその「敵」を攻撃します。ですが、少なくとも日本に限っていえば喫煙行為が大衆に広がったのはせいぜい100年かそこいらですし、それとて喫煙行為を称揚するような企業による広告や政府による軍人への配給といった「上からの意図」があったことは否めないでしょう。すなわちその(喫煙称揚派が言うところの)「伝統文化」をいまや規制する側に回ろうとしているのがそもそもその「伝統文化」を創出した側であるかもしれないのです。
とはいえこの「文化である」という反論はなかなかインパクトがあるようで、ドイツを初めとしたヨーロッパでは、この論理による反論をしばしば耳にしました。日本の喫煙であればケチも比較的つけやすいのですが(笑)、それが長い歴史をもっていたり、とりわけ宗教などと結びついているとなかなか難しい事態に陥ってしまいます。この難しさは、何も喫煙だけに限りません。
Josh Adamsの研究によれば、アメリカのメディアにTatoo(入れ墨),Piercing(ピアス),Body Modification(身体改造)といった単語が取り上げられる場合、80%以上の確立でネガティヴな表現が続くようです。それらは大抵「社会問題、病気、貧困、犯罪、暴力」といったものだそうです。ですが、冒頭の単語の前に「~族の」や「~教の」といった形容詞がついた場合、ネガティヴとポジティヴの比率が逆転、すなわち80%以上の確立で「興味深い、独特、歴史」といった表現が続きます。換言すれば、入れ墨やピアスはアメリカのメディアにおいては否定的なものですが、それが「文化」とつながる場合には肯定的なものへと転じるのです。
ですが、それらの「文化」は決して「健康的」ではありません。たとえば、アメリカで有名な俳優兼プロレスラーのザ・ロックことドゥエイン・ジョンソンの祖父ピーター・メイビアは、往年の名レスラーですが、自らの出身であるサモア族伝統の入れ墨を入れたことが原因で悪性の血液腫瘍を発症し早世します***。
このような危険を伴った「不健康な行為」も「文化」であれば、なかなか批判されづらい傾向にあるようです。もちろんアフリカ諸国の女児への性器割礼やアボリジニの男児への尿道割礼などには批判的な目も向けられていますが、一方でそれらへの介入が「文化を破壊してしまう」という声も少なくありません。
さて、だいぶ話が錯綜してまいりましたが(笑)、マーラーよろしく「喜びに満ちて緑の森を緩歩」しましたので、夜の帳が下りる前に森を抜けましょう。
僕のギモンは以下の2つです。
1.健康を理由にした規制はどの程度まで正当化できるのだろうか。
2.文化と健康の絡み合いに如何に関わっていけばいいのだろうか。
みなさまからご意見賜ることが出来れば幸いです。
*この論文を読んだとき最初に頭をよぎったのは、ドイツではある時間以降になると、有料ではないごく普通のチャンネルでポルノを放送する、ということでした。日本では到底考えられないことだったのでドイツ人の友人に尋ねたところ「この時間になれば子どもは寝ているから問題ないさ。それにもし見たとしても、あんまりハードなのはやってないから大丈夫だよ!」と言って笑っていました。一方でドイツ版の『クレヨンしんちゃん』ではしんちゃんの「ゾウさん」にモザイクがかけられていました(僕には逆に性的に思われたのですが・・・)。
もし日本の非有料放送がポルノを放映したらそれこそ大問題になるでしょう。ですが、しんちゃんの「ゾウさん」は確かに「下品である」という非難こそあれ、モザイクをかけるべきだ、と言った議論は聞いたことがありません。
**ドイツは、ナチスの反タバコ政策への反省があるのか、ヨーロッパのその他の国々と比べ喫煙に関しては比較的寛容な印象があります。街のいたるところに灰皿がありますし、レストランも分煙化された、とはいえオープン席ではごく普通にタバコを吸うことが出来ます。また、価格自体も他のヨーロッパ諸国と比べると割合安いです。
***孫のドゥエイン・ジョンソンもサモア式の入れ墨を入れていますが、近年は入れ墨も技術が上がってきており、そこまでの危険性は伴わなくなってきました。しかし、進歩する社会の反対物として描かれがちな入れ墨やピアスといったものが、その進歩する技術の恩恵を受けて以前より「安全」かつ「望んだ通り」に行われるのって、なんだか非常に弁証法的で面白いですね。
日本でも入れ墨や身体改造の愛好家たちが「自分たちは反社会的な存在ではない」ことをアピールして理解を(差別や奇異の目で見ることをやめるように)求めていますが、これって、「反社会的存在」としての主体化するために入れ墨をいれたり指を詰めたりしたアウトローの人たちにとってはエライ迷惑でしょうね。まあアウトローがわれわれにとっては迷惑なわけですが。
(Xenakis48)
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