2012年12月31日月曜日

全国大会に出場して

みなさまはじめまして。早大・学部4年のイマイと申します。
とある事情から、文化政策の内容が必要になり、金曜2限の授業に潜らせていただいています。

この授業自体が政治経済の大学院に属しているためか、みなさまの投稿している内容に政治的な関心が多く見られます。そんな中、やや雰囲気のことなるものかもしれません。授業を通して思い浮かんだことを書きます。


私は今年(まだ12/31)、所属する合唱サークルで合唱コンクール全国大会に出場しました。今年の全国大会は、富山県の富山市芸術文化ホール(オーバードホール)にて11/24,25に開催されました。
大会の内容はともかく、行ってみて思ったのが、人通りの少なさです。私がずっと関東近郊に住んでいるため、そのギャップだったのかもしれませんが、富山ですれ違う人のほとんどが、本番舞台用の衣装を片手にもった同業者でした。それだけでは人通りの少なさがあるとは言えませんが、繁華街から駅を挟んで反対側のホールに向かうための地下道では、地元の方がどれくらいいるのか不安になるほどでした。繁華街も同様です。立ち寄ったコンビニでも、どこかで見覚えのある顔の人たちが・・・。この様子から、普段この町はどれだけの人がいるのか、もしかしたら今までにないくらい人通りが多いのではないかと思うほどでした。(こんなことばかり言っていては富山出身の方に怒られそうですね。ごめんなさい。あくまで個人の感想です。)
全国大会のようなイベントに付随して、一時的でも人の多さはそれだけ経済効果があるのは確かでしょう。宿泊施設、打ち上げ会場などは確実に利用されるし、会場近くのデパートには全国大会出場者向けのお土産の宣伝もありました。コンクールのような催しは単なる音楽祭や技術を競い合うことだけでなく、地域活性化の一翼を担ってもいると実感しました。
このような状況になるのも、そもそもは全国大会が毎年、各支部(北海道、東北、関東、中部、北陸、関西、中国、四国、九州沖縄)の持ち回りであることに由来します。毎年、会場が異なるのは何の問題もないように思えます。例えば、フィギュアスケートの大会、規模の大きいものでは国体なども各地で行われていたりしていますから、不思議なことではありません。もっと言えば、オリンピックも今では世界規模で(持ち回りではないが)各地域を挙げて取り組まれています。

そういった各地で行われる全国大会の一方で、毎年同じ会場で行われるものもあります。例えば、春・夏の高校野球や年末の高校サッカー、さらには中学、高校の吹奏楽コンクールです。それぞれ、甲子園、国立競技場、普門館と呼んだほうがわかりやすいかもしれません。「甲子園初出場」「国立まで行ったことある」「目指せ普門館」といった言葉は、その会場に行った、行きたいのではなく、全国大会出場という代名詞となっています。特定の場所がある競技の中では神聖化された場所であり、かなり特別な意味を持ちます。と同時に、「その競技と言えばどこそこ」のようなイメージ形成にもつながります。その競技を有名にする役割もあるかもしれません。メジャーな競技になれば、それだけ競技参加人口も増えますから、それが全国に波及することで直接ではなくても間接的に文化振興、経済振興の効果があると言えるかもしれません。
全国大会の場所が同じである理由は、各競技の歴史の中で紆余曲折あったのでしょう。ましてや中学、高校の部活動になぜか全国大会が決まった場所であることも多いため、何かあるに違いないのですが、私もこれについてはまだ詳しく知らないため、これからの課題としたいです。

さて、こう見てみると、全国大会のように人の行き来が確実にあるものを全国各地で行うことで経済の活性化が見込める一方、伝統的に決まった場所で行われていて、競技参加人口を増やし、間接的な方法で貢献しているものもあります。文化ホール利用や地域活性化のためには、持ち回っていたほうが良いように思えます。しかし、合唱の場合であれば、たかだか一日二日の催しであり、かつ47都道府県のうちでの持ち回りなのでたまたまめぐり合わせてやってくるようなものです。持ち回りだからといってそれが確実に各地域の文化振興や経済振興に役立っているのでしょうか。では、決まった場所でやるべきなのか、そうとも思いません。そのようなどちらが良いのかということが言いたいわけではなく、何が考えたいかと言えば、このような全国規模で行われている大会があることで文化振興だとか、活性化だとか言うばかりではなく、それを契機にして文化振興ができないのかということです。
全国大会を催すだけならば簡単でしょう。しかし、それがただの一過性のイベントに過ぎないということになっていては、全国大会という機会が活かしきれていないのではないでしょうか。特定の場所で行われるものはある種の閉鎖性も予想されますが、良いか悪いかは別にしてイメージ作りという面では成功していて、競技や文化として認識を強めていると言えます。まず競技や文化そのものを広く認識してもらわなければ、多くの人はとっつきにくいと感じてしまうばかりなはずです。政策と同時にイメージの形成という観点は実は同時に必要なのではないでしょうか。もちろん、あまりに政治的に利用されたりするのも注意しなければなりませんが。
また、一過性のイベントでしかないのであれば、大抵そのイベントに出向くのは一部のファンや関係者でしかないことが多いです。地域の方々にとってはいつの間にか終わっていたイベントです。特に合唱はCMで宣伝されたりもしません。全国大会が行われているらしいけれど、ホールの中では何が行われているのか、どのような様子なのか特に関心がなければ知り得ないことでしょう。フラッと立ち寄れるようなイベントではありません。富山での全国大会ではなく、富山にあるホールの中だけが全国大会なのです。

以前、ハンガリーの合唱祭に参加した際に、合唱祭の中心地域から少し離れた場所にある教会などでコンサートを開きました。これは自主的なものではなく、合唱祭のプログラムの一環でした。いわゆる出張コンサートですね。ただホールの中だけで展開されているイベントなのではなく、ある時期になると地域を挙げて盛り上がるということに大きな衝撃と感動を覚えました。この合唱祭は2年に1度開かれているので、その意味では一過性ではないのですが、大きなイベントにこそ、それに付随して文化振興ができるような機会があってもよいのではないでしょうかと思います。

なんだかまとまりのない話になってしまいすみません。拙文お許しください。
失礼しました。
(早・イマイ)

2012年12月21日金曜日

健康と文化

こんにちは。
早稲田で金曜2限の文化政策を受講している21527です。

私は政治学研究科で政治的社会化について実証的に研究していまして、これは直接に文化とかかわるテーマではありません。文化(特に芸術)に触れることで政治的に発達する社会化も当然存在するとは思いますが、あまりに間接的な形態であり、分析することは困難でしょう。また私自身、皆様と比べると芸術に触れる機会があまりにも少なく、ここで私の芸術履歴について書いても、教養のなさが露呈してお恥ずかしい限りとなるのは間違いありません。したがいまして今回は、先のXenakis48さんが提示された、健康を盾とした文化への干渉(疑問のひとつ)について、私がこれまで学んできた法学に関連した感想を述べるにとどめたいと思います。

芸術に対して性的な「不健康」を裁判所が認定した事例として、日本ではチャタレイ事件が有名です。皆様もご存知かと思いますが、これは戦後まだ間もない1950年代前半の判決であり、芸術作品かわいせつ物かを判定するために、法的にわいせつの要素を示したものです。最高裁判所は「いたずらに性欲を興奮または刺激せしめ、かつ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する」という3条件を満たしたものはわいせつ物である、としました。この背後には、公共の福祉という聞き慣れた憲法用語があります。公共の福祉そのものについての定義は時代によって移り変わり、また実際に霧のようなものなのですが(具体的に挙げると、とんでもない種類になりますので割愛します)、だからこそ、国民の多数派がある種の公共の福祉を掲げれば、なんだって許されることになります。現在は、芸術に限らずとも基本的人権を直接に規制する理由として公共の福祉のみを援用することは難しいとされていますが、自民党憲法草案にはそのような解釈ができそうな文言がありますし、それについて国民は到底危機感を抱いているようには思えないので、単純に古臭い議論であると片付けることはできないでしょう。いずれにしても、基本的人権は天賦のものであるという欧州式の発想を実感的にもたない今日の日本の憲法論議においては、その国の文化の担い手である国民が制定ないし解釈する正当性をもった憲法が、文化を規制する免罪符となることに抵抗はないと私は考えています。その発想の源は「現実にあわせて改憲をしよう」という本来逆転している発想が容易に容認されていることがすべてであると思います。
 以上からXenakis48さんの疑問のひとつめには、私個人の感想としてこう答えます。「現在の法技術的には、人命や健康が真っ先に保護法益として挙げられるのに対し、文化は保護法益として明確に定義されておらず、手続きを踏めば当然規制は正当化されうるし、それに対する反発も大きくならないことが予想される。ただし、この発想は『現在の国民の』法的な考えを基にしたものである」まったくの論理の飛躍で大変失礼しますが、法的規制でいうなら、私はこのように思います。感情的には怖い世の中であると思いますけどね。あとは日本における国民の健康志向の変化と、憲法論議に際しての因果逆転の理解次第ではないでしょうか。

早大21527

2012年12月20日木曜日

開発援助と文化



皆さまこんにちは。
早稲田大学政治学研究科の aki と申します。
小林真理先生の「文化政策」を受講しています。
2年前にタンザニアの中学校でボランティアをした経験から、
「子どもの名前」と「宗教を伴った開発援助」について考えてみたいと思います。

まず皆さんタンザニアについてご存知でしょうか。
タンザニアは東アフリカに位置する国家であり、日本ではキリマンジャロやマサイ族が比較的有名です。
他部族からなる国家ですが目立った衝突も無く、独立から50年間平和に成長しています。

そんなタンザニアへボランティアへ行って1番驚いたのが「子どもの名前」でした。
タンザニアには生徒の名簿のようなものはなく、生徒の名前は1人1人聞いてメモしなければならないのですが
公用語であるスワヒリ語や部族の言語に由来する名前は発音の難しいものが多いです。
60人分(1クラス)の名前を覚えるとなると大変だと覚悟していたのですが、
実際に尋ねてみると「ビビアン」や「クリス」など耳に親しんだ英語の名前も多く、
イスラム教、伝統的宗教に由来した名前と同じくらいの割合でした。

英語の名前が多いことは、イギリスの旧植民地であるためでもあるのですが、今回は宗教の影響について考えてみたいと思います。
まず、かつてタンザニアでは各部族が土着の、伝統的宗教を信仰していました。
現在はキリスト教・イスラム教がその規模を拡大しておりますが、
このようなキリスト教やイスラム教の割合を高めた要因の1つとして考えられるのが、
植民地支配期の布教活動や開発援助に伴った布教活動です。
と言いますのも、布教活動は教育開発を伴うケースが多く、植民地支配期の教育機会の拡大に貢献したと言われているからです。
独立期に教育を受ける人々がキリスト教やイスラム教の洗礼を受けていったこと、
現在も私立の学校の運営が、宗教NGOによる開発援助により成り立っていることから、
タンザニアには宗教的な学校が多く、人々の間に宗教が広まりやすい土壌があることが分かります。
(もちろん植民地時代のイギリスの政策も多いに影響しているでしょうが...)
かつては大半をしめた伝統的宗教の信仰者が減少傾向にあり、現在はキリスト教・イスラム教・伝統的宗教は同じくらいの割合で分布しています。
このような新しい宗教の拡大によって、キリスト教やイスラム教を信仰する夫婦が増え、
生まれた子どもに宗教に由来する名前をつけたことから、伝統的な名前の減少に繋がったようです。

余談ですが、近年は宗教に由来しない個性的な名前も増えており 'Godlisten', 'Godess', 'Happiness', 'Lovely' といった名前の子どももいました。
日本でも個性的な名前が「キラキラネーム」などと言われておりますが*、
その現象は先進国のみならず、タンザニアのような最貧国と呼ばれる国でも顕著なようです。


*「新生児の名前「Apple」「Siri」が急増 米調査(12/3)」 http://www.cnn.co.jp/fringe/35025164.html (2012/12/21アクセス)
先進国の「子どもの名前」が取り上げられているニュース記事。


(早・aki)

2012年12月13日木曜日

金曜2限「文化政策」

皆様こんにちは。
早稲田大学大学院政治学科のK.Iと申します。

小林真理先生の「文化政策」の授業を受講しています。
「国民の教化、アイデンティティの形成」としてのナチス政権下における「文化政策」について書かせていただきます。

まず、私自身は古代ギリシャの政治思想、特にプラトンとアリストテレスのそれに関して研究をしているのですが、プラトン『ポリテイア(国家)』で展開される教育論が、ナチス政権下においてその文化政策の理論的根拠として援用されたことはよく知られていると思います。例えば、プラトンとヒトラーは相似形のような関係にあると捉えたフランツ・ストロイシュ、1933年の党大会(「勝利の党大会」)での演説で民族間の「反平等主義者」プラトン像を描き出したアルフレート・ローゼンベルグなど、ナチ関係者を含め多くの人物がプラトンを引用してナチス政権の正統性を主張しました。

ここで彼らの主張とプラトンの原典を比較して、彼らのプラトンがいかに歪んだものかを示すことはしません(興味のある方は、佐々木毅『プラトンの呪縛』講談社、1998年をご参照下さい)。
ナチスによる文化政策に限らず、「国民の教化、アイデンティティの形成」を目的とする文化政策は、その本質上「我々」と「他者」を区別するものであるため、「我々」から除外される人々に対する排他性を形成するという側面もあります(このことはスリランカにおけるシンハラ政策からも窺い知ることができるでしょう)。つまり、文化政策は寛容であると同時に独善的であり、文明的であると同時に野蛮的でもある、そのような一面を持ち合わせている。
私個人の興味関心の話で申し訳ないですが、歴史上のこれらの危機の実相との関係でプラトンのもつ現代的な意義を、改めて考える機会となりました。

(早・K.I)

リニア・鉄道館にて考えたこと

リニア・鉄道館(名古屋市港区)を見学した。ここでは、その展示内容とそこから読み取れる博物館の理念や訴えようとしているもの、またそれについて私が考えたことについて述べたい。
 まず、この博物館の概要を公式ホームページ(http://museum.jr-central.co.jp/)に基づいて説明したい。この博物館は昨年3月に開館した、東海旅客鉄道株式会社(JR東海)が直営する鉄道博物館であり、そのコンセプトは同館ホームページによると、「現在の東海道新幹線を中心に、在来線から次世代の超電導リニアまでの展示を通じて『高速鉄道技術の進歩』を紹介」すること、「鉄道が社会に与えた影響を、経済、文化および生活などの切り口で学習する場を提供」すること、そして「模型やシミュレータ等を活用し、子どもから大人まで楽しく学べる空間」であることとされ、「夢と想い出のミュージアム」という呼称も館名に続く形で付けられている。展示は主に、実際の車体の展示、鉄道技術のモデル展示、史料展示等であり、シミュレータにて運転士や車掌の業務の一部を体験することが出来る。
 私が見学したのは平日であり混雑はしていなかったが、未就学児と保護者、高齢者、外国人のツアー客等幅広い年齢の人々が来館していた。入館すると、まず3両の車体が展示されている部屋へ出る。この3両は、それぞれC62型蒸気機関車、955形式新幹線試験車(300X)、そして超伝導リニアのMIX01-1である。これらは「高速鉄道のシンボル」として位置づけられており、それぞれ狭軌に於ける蒸気機関車の最高速度、電車の最高速度、鉄道の最高速度を記録した車両であり、何分かに1回、それを説明する映像が流される。この部屋を抜けると、メインの展示室に入り、そこには30数両(ホームページによれば実物車両は全部で39両)の車両が展示されている。0系、100系、300系の新幹線車両、381系電車、52系電車等が前面に並んでいる。概ね歴史的な順序で入り口から見て右から左へ配置され、後方にも何両もの貴重な車両が、美しく磨かれて展示されている。殆どの車両では、座席に座ることは出来ないが、復元された内部の見学も可能になっている。また、その展示の周りにはモデルを用いた地震感知と緊急停止の仕組みやATCの仕組み、台車の仕組みや座席、改札、オペレーション全般の、映像や模型を用いた展示が行われている。その他精巧なジオラマの展示や、超電導リニアの技術に関する展示、シミュレータ、2階では史料の展示、電車の玩具などを置いた子ども用の遊び場等がそれぞれ部屋に分かれて配置されている。リニア・鉄道館という名前であるが、どちらかというと超電導リニアに関する展示よりも在来線・新幹線に関する展示のほうが多い。
 この展示の於いて一貫しているのは、そのコンセプトにも示されている通り、高速鉄道技術の重視である。新幹線車両や技術の展示は勿論、前面に展示されている381系電車も、日本初の振り子式車両として開発され、名古屋と長野を結ぶ特急「しなの」号に於いて、その丁度後方に展示されている気動車特急の時代から大幅な時間短縮を実現した車両である。そして、シンボル展示に位置づけられている3つの車両もまた、前述したように速度の世界記録を出した車両である。同行した鉄道ファンの友人の話によると、展示品の一部、特に旧式の車両や史料は、JR東海が嘗て営業していた佐久間レールパークに展示されていたものである。それを考慮すれば、同社がこの新しい博物館の展示品を選び、展示を作り上げてゆく過程には、今後の開通と新たな主要事業となるであろう、東京、名古屋、そしてゆくゆくは大阪を結ぶ超電導リニアへと続く、都市間高速鉄道の重視と、そのアピールが一貫した理念として見えてくる。
 高速化は、鉄道事業の目指すものの一つであることは間違いがない。そしてそれは、新幹線にその収益の大部分を頼るJR東海(同社の旅客運輸収入:http://company.jr-central.co.jp/company/achievement/financeandtransportation/transportation1.html)にとって、安全輸送に次ぐ最も重要な事業上の関心事であろう。しかし、鉄道事業が旅客に提供できるものはそれだけではない。勿論それらをJR東海が軽視しているというわけでは無いが、快適な居住性の提供、便利な駅の提供等、高速化とそれが完全に分離している訳では無いが、高速化の他にも鉄道事業が目指すべきもの(ここでは安全輸送は、私はそれらの基盤となる大前提としてあえて枠外に置いている)が存在する。それらではなくて、「高速鉄道技術」を前面に打ち出すということはどういうことなのか。それをこの博物館が強調する理由の最大のものは、前にも少し触れたように、JR東海の経営方針であろう。新幹線でその収益の大半を稼ぎ、将来に於いては超伝導リニアにより三大都市間輸送を担おうとしている。博物館を運営するにあたって同社は、「高速鉄道技術」を来館客に一番にアピールしたいであろうし、勢いすることになるであろう。しかし、ここではもう少し、「それがどういうことなのか」、つまり展示に於いて「高速鉄道技術」が前面に押し出されている意味を考えてみたい。ここで、同館のコンセプトの、ここまで私が言及してこなかった最後の一つを思い出してみよう。それは、「鉄道が社会に与えた影響を、経済、文化および生活などの切り口で学習する場を提供」することであった。鉄道はいうまでもなく社会的なインフラの一つであり、それは特に日本に於いては、まさに日常生活の一部であろう。今このブログを読んでいる人のうち、日本で生まれ育った人で、鉄道を利用したことがない人がいたら、ぜひ私に教えてほしい(私の知人で、高校まで徒歩通学だったため、高3まで一人で切符を買えなかったという者はいるが)。このコンセプトに対応する展示は、主に2階に位置する展示室で展開されている。これらの展示は、鉄道の歴史を踏まえたものであり、新たな知見を得ることの出来るものであるが、この博物館で前面に押し出されている鉄道の高速化という理念に比べると、些か展示の量が寂しい。しかしながら、この「鉄道が社会に与える影響」というものは、「鉄道の高速化」と強く繋がっている筈である。この博物館に於いて、鉄道の高速化を重視するならば、更にそれが社会に与える影響、或いは、社会からどのような影響を受けて鉄道は高速化してゆくのかということも、もう少し考えるべきなのでは無かろうか。日本最大の鉄道会社のうちの一つが、鉄道博物館を建てた。そこでは鉄道の高速化が強調されている。そのこと自体、これからの日本の鉄道と社会との関係に何らかの示唆を持つのでは無かろうか。
 現在、運賃のことを考えなければ、名古屋近郊に或る私の実家から、早稲田大学の2限の授業に通うことが出来る。京都市内の大学なら、名古屋から通っている学生がいるという話をよく聞く。リニア開通後、運賃次第では、名古屋から東京に通う学生やサラリーマンが現れる。現在の東京から八王子や千葉への出張と、リニア開通後の名古屋までの出張との移動時間は殆ど変わらない。リニアの開通は、車内でサンドイッチを食べコーヒーを飲んでいる間に名古屋から東京までの移動を可能にする。名古屋から各駅停車で東京まで行くと、その間に文庫本が3冊は読める。リニアの中では1冊のうちの3分の1がやっとであろう。そのような社会がまもなく実現しようとしているのである。日本国内に於ける交通革命に違いない。一方で、JR東海はリニアがこの社会に求められていると思うからこそ、その建設をする筈である。この社会は、東京、名古屋間を1時間40分で結ぶ新幹線でよりも、更に早い移動手段を求める社会なのである。近年、鉄道ファンたちは多くの鉄道の(少なくとも彼らにとっての、おそらく多くの人にとっても)楽しみが消えてゆくことに嘆いてきた。西行きブルートレインは全廃された(寝台特急自体は残っているが)。この博物館にも車両が展示されているが、新幹線の食堂車も既に全廃されている。この社会に存した文化は、それらとは相容れなかった、ということなのであろう。
 コンセプトにも示されている「鉄道が社会に与えた影響」、或いはその逆の関係と現在や未来に於いて起こる事柄も含んで、「鉄道と社会との関係」を、同じくコンセプトに示され、実際の展示でも強調されている「高速鉄道技術の進歩」に対しメタに位置づけて考察することを来訪者に促すのは、彼らにリニアや新幹線への批判的な意見をもたらしかねない可能性もあり、私企業であるJR東海が運営する博物館にとっては難しいことであろう。しかし、鉄道の利用者であり、何よりもかけがえのない交通インフラとしての鉄道に支えられている社会に生きる私たちは、一度はそういった見方で考えてみるべきでは無かろうか。日本の優れた鉄道技術は、私たちに次々に夢を与え、更にはそれを次々に現実にしてきた。超電導リニアもまた、現実になりつつある巨大な夢である。お年寄りから私たち学生まで、誰もが「想い出」にゆったりと浸れる車両と再会できる、豊富な展示のあるこの博物館で、「夢」についても、ゆっくりと考えを巡らせるのもよいかもしれない。

(早・宇佐美)

2012年11月30日金曜日

不健康な文化と健康な社会

初めて投稿させて頂きます。Xenakis48です。
Xenakisは、ギリシャ出身で主にフランスで活躍した建築家、作曲家のヤニス・クセナキスIannis Xenakisにちなみ、48は、彼の佳曲ST48と某国民的アイドルにかけています。

どういうことを書けばいいのか悩ましいところですが、今回は、前の記事で宇佐美さんが書いてらっしゃる「表現規制」のお話と近しいテーマになりますが、タイトルにもある通り「文化と健康」についてあまり深入りしないように(笑)、簡単に考えてみたいと思います。

2007年、ドイツ北部シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州都キールに置かれた「治療・健康調査センター」のReiner HanewinkelとGudrun Wiborgが、テレビでの喫煙シーンが喫煙率に与える影響を考察した論文„Verbreitung des Rauchens im deutschen Fernsehen“ を発表しました*。彼らによると、調査対象となった2005年当時、ZDFをはじめとしたドイツの主要なテレビ局が放映する番組全体のおよそ45%が1回以上の喫煙シーンを含んでいたそうです。続けて彼らは、喫煙シーンを多く含む映画を見た子どもの喫煙のリスクが高まることを指摘した研究を引き合いに出し、テレビでの喫煙描写に見直しを迫ります**。

日本でも同様の問題については長く議論が行われており、1998年にJTはテレビでの広告を終了しました。しかし日本禁煙学会の調査によれば、現在でもテレビ番組では多くの喫煙シーンが喫煙という行為を否定しない形で登場しており、これが喫煙を正当化させ喫煙開始の誘引になるという影響を与えている、とのことです。また、アメリカでは2007年にディズニーグループを初めとする映画会社が喫煙シーンをすべての映画から排除することを決定しました。

さて、これら規制の動きはどれも「喫煙行為が不健康であること」を根拠にしています。確かに「子ども」を引き合いに出されてしまうとなかなか反論しづらいところがありますが、それでは「不健康な行為」に至らせてしまう可能性のある表現はおよそ規制されるべきなのでしょうか。たとえば、殺人を扱った刑事もののドラマや暴力的な不良が主人公のドラマも、それが「不健康な行為」を誘発するのであれば規制されるのが正当なのでしょうか。確かに、ドイツでのナチスに関する法律のように「それが否定的描写であれば良い」という観点から規制されればそれらの表現がメディアから完全に駆逐されることはないでしょう。ですが、すべての犯罪者が法の裁きを受け更生し、すべての不良が優れた教師の指導の下に社会化されていく物語に満ちた世界、すなわちすべてがハッピーエンドの世界(タバコを吸っている「悪者」は禁煙して「真人間」になるか肺がんでとっとと死ぬ世界)、僕にはなんだか不気味に思えます。

これに対して、禁煙や分煙の推進派を非難する人々は、しばしば「喫煙行為が伝統文化である」と言ってその「敵」を攻撃します。ですが、少なくとも日本に限っていえば喫煙行為が大衆に広がったのはせいぜい100年かそこいらですし、それとて喫煙行為を称揚するような企業による広告や政府による軍人への配給といった「上からの意図」があったことは否めないでしょう。すなわちその(喫煙称揚派が言うところの)「伝統文化」をいまや規制する側に回ろうとしているのがそもそもその「伝統文化」を創出した側であるかもしれないのです。

とはいえこの「文化である」という反論はなかなかインパクトがあるようで、ドイツを初めとしたヨーロッパでは、この論理による反論をしばしば耳にしました。日本の喫煙であればケチも比較的つけやすいのですが(笑)、それが長い歴史をもっていたり、とりわけ宗教などと結びついているとなかなか難しい事態に陥ってしまいます。この難しさは、何も喫煙だけに限りません。

Josh Adamsの研究によれば、アメリカのメディアにTatoo(入れ墨),Piercing(ピアス),Body Modification(身体改造)といった単語が取り上げられる場合、80%以上の確立でネガティヴな表現が続くようです。それらは大抵「社会問題、病気、貧困、犯罪、暴力」といったものだそうです。ですが、冒頭の単語の前に「~族の」や「~教の」といった形容詞がついた場合、ネガティヴとポジティヴの比率が逆転、すなわち80%以上の確立で「興味深い、独特、歴史」といった表現が続きます。換言すれば、入れ墨やピアスはアメリカのメディアにおいては否定的なものですが、それが「文化」とつながる場合には肯定的なものへと転じるのです。

ですが、それらの「文化」は決して「健康的」ではありません。たとえば、アメリカで有名な俳優兼プロレスラーのザ・ロックことドゥエイン・ジョンソンの祖父ピーター・メイビアは、往年の名レスラーですが、自らの出身であるサモア族伝統の入れ墨を入れたことが原因で悪性の血液腫瘍を発症し早世します***。

このような危険を伴った「不健康な行為」も「文化」であれば、なかなか批判されづらい傾向にあるようです。もちろんアフリカ諸国の女児への性器割礼やアボリジニの男児への尿道割礼などには批判的な目も向けられていますが、一方でそれらへの介入が「文化を破壊してしまう」という声も少なくありません。

さて、だいぶ話が錯綜してまいりましたが(笑)、マーラーよろしく「喜びに満ちて緑の森を緩歩」しましたので、夜の帳が下りる前に森を抜けましょう。

僕のギモンは以下の2つです。

1.健康を理由にした規制はどの程度まで正当化できるのだろうか。
2.文化と健康の絡み合いに如何に関わっていけばいいのだろうか。

みなさまからご意見賜ることが出来れば幸いです。


*この論文を読んだとき最初に頭をよぎったのは、ドイツではある時間以降になると、有料ではないごく普通のチャンネルでポルノを放送する、ということでした。日本では到底考えられないことだったのでドイツ人の友人に尋ねたところ「この時間になれば子どもは寝ているから問題ないさ。それにもし見たとしても、あんまりハードなのはやってないから大丈夫だよ!」と言って笑っていました。一方でドイツ版の『クレヨンしんちゃん』ではしんちゃんの「ゾウさん」にモザイクがかけられていました(僕には逆に性的に思われたのですが・・・)。
もし日本の非有料放送がポルノを放映したらそれこそ大問題になるでしょう。ですが、しんちゃんの「ゾウさん」は確かに「下品である」という非難こそあれ、モザイクをかけるべきだ、と言った議論は聞いたことがありません。

**ドイツは、ナチスの反タバコ政策への反省があるのか、ヨーロッパのその他の国々と比べ喫煙に関しては比較的寛容な印象があります。街のいたるところに灰皿がありますし、レストランも分煙化された、とはいえオープン席ではごく普通にタバコを吸うことが出来ます。また、価格自体も他のヨーロッパ諸国と比べると割合安いです。

***孫のドゥエイン・ジョンソンもサモア式の入れ墨を入れていますが、近年は入れ墨も技術が上がってきており、そこまでの危険性は伴わなくなってきました。しかし、進歩する社会の反対物として描かれがちな入れ墨やピアスといったものが、その進歩する技術の恩恵を受けて以前より「安全」かつ「望んだ通り」に行われるのって、なんだか非常に弁証法的で面白いですね。
日本でも入れ墨や身体改造の愛好家たちが「自分たちは反社会的な存在ではない」ことをアピールして理解を(差別や奇異の目で見ることをやめるように)求めていますが、これって、「反社会的存在」としての主体化するために入れ墨をいれたり指を詰めたりしたアウトローの人たちにとってはエライ迷惑でしょうね。まあアウトローがわれわれにとっては迷惑なわけですが。

(Xenakis48)

2012年11月21日水曜日

『ふがいない僕は空を見た』のレーティングに関して

 11月17日(土)より公開されているタナダユキ監督作品『ふがいない僕は空を見た』*を鑑賞した。新聞各紙の映画評にも取り上げられているように、邦画の中では本年度有数の傑作である。
 (以下に於いてストーリーへの言及があることを予めご了承いただきたい。)この映画は、不倫関係にある男子高校生と専業主婦を主人公にした、人が生きているということのかけがえのなさを印象付ける作品である。高校生の母親は助産師であり、その仕事ぶりと、吐露する想いからは、人が生まれ生きているということそのこと自体への無条件の肯定を感じさせ、また主婦は姑からの強い初孫の期待を受けながら、苦痛を伴う不妊治療を受けている。人が生まれること、生きることに在る価値を、想起させる作品である。
 一方で、これは私が特にこの場でこの映画を取り上げる意味にも関わるが、作中における2人の主人公の不倫関係は、ある時点までひたすらにセックスで描写される。主婦はアニメのコスプレを趣味としており、映画の冒頭は2人のコスプレでの行為である。そして2人のセックスは、その本源的な目的であるはずの生殖とは関わらないものであり、不妊治療からの逃避であったり、性欲を満たすためであったり、後にはただ愛し合うが故のものであったりする。そしてそれが、上述の、人間が生まれること生きることそれ自体と切り離されてしまっているところが、登場人物たちが生きる上で、どうにもならない切なさとして感じられる。
 様々な困難や苦痛にぶつかりながら人が生きていくということを描いた作品であり、私は友人にも勧めたいと思いながら劇場を後にした。高校生を主人公とし、その友人も重要な登場人物であり、学校の様子を描写することから、高校生であってもこの映画から考えることは多いであろう。しかしながら、この作品をわざわざ文化政策の講義と関連付けられたこの場で話題にしたいのには、理由がある。それは、この作品が、日本のレーティングでは最も厳しいR18+の指定を受けているからである。かなり長く露出の多いセックスシーンがある為に指定を受けることは仕方のないこととも思えるが、一方で高校生を主人公とし、高校を舞台の一つとして展開される含意の多い物語でありながら、高校生の年齢にあたる人々の鑑賞を阻んでいることは、非常に勿体のないことであるように私は考えている。
 ホームページによると、映倫(映像倫理委員会:映画関係者の自主的な団体であるが、実際には規制や司法判断に対しての自主規制の役割を担うと考えられる)は「表現の自由を護り、青少年の健全な育成を目的」**としている。この映画における性的描写もまた、18歳未満の人々が観ると彼らの「健全な育成」の障害となるものとの審判であろう。しかしながら一方で、上に長々と私が映画に関して素人の立場から論評を試みたように、この作品のテーマは、人間が生まれること生きることそのものに関わっており、高校生が鑑賞してもそれに関してより思索を深められそうなものであり、性的なシーンもまた、上にも言及したように、登場人物たちの生き方を考える上での重要な描写である。この映画を高校生に見せるために、監督に性的なシーンを削った上で完成品として世に出すことを提案したら、それは却下されるであろうし、私もそのような改変が望ましいものとは思わない。更に言えば、そもそもこの作品に於いて高校生がセックスに関わることは、決して非現実的な描写ではなく、それが現実にも起こり得ることだからこそ、ここで描かれていると想像できる。であるとするならば、性的表現を取り上げての年齢制限が実際に「青少年の健全な育成」に寄与することができるかは疑わしい。そうでなくとも、少なくとも彼らが近い将来に於いて直面する問題に対して、何らかの含意があると考えることもできるのではなかろうか。
 私はこの映画を全年齢に開放すべきだと訴えかける積りはないし、性的な描写を含む全映画を高校生に開放せよと訴えている積りも全くない。ただ、私自身が大変感動し、多くの人に薦めたいと思った映画に対し、その中の表現を巡って年齢制限がかけられており、そしてその表現が、作品の重要な意味を与えているものであると考えた為、ここで問題を提起したものである。この映画に年齢制限をかけることは、健全な「青少年」の育成の為かもしれないが、それは、その育成の対象となる人々の、人生に関する思索の機会を奪っている点で、少し勿体ないと、私は思うのである。

*2012、日本映画。テアトル新宿他で公開中。劇場公開版はR18+指定。二次市場向けの再編集版ではR15+指定を受けた。
**映倫ホームページ。http://eirin.jp/。2012年11月21日参照。

(早・宇佐美)

2012年11月16日金曜日

God Save the Queen

みなさまこんにちは。はじめて投稿させていただきます。早稲田大学大学院政治学科政治思想領域博士課程のsararaと申します。

小林真理先生の「文化政策」の授業を毎週とても楽しみに受講しています。先生の講義内容は、領域は異なるのですが私自身の従来の興味関心と重なる部分も多く、いつも刺激をいただいています。

文化政策が、フランス革命以降の芸術の民主主義化、とりわけ「民衆のための劇場」の構想にまで遡るというお話は特に興味深いです。大衆は国家の思惑からある種の官製文化を押し付けられているわけですが、それをしたたかに換骨奪胎して真の大衆の芸術に仕立て上げたというケースもあるのではないでしょうか。こんなことを考えたのは、文部省唱歌を分析した渡辺裕『歌う国民 唱歌、校歌、うたごえ』(中公新書)を読んだからなのですが。

ところで、歌う国民ということで言えば、1970年代に英国のふたつのロックバンドQueenとSex Pistolsが、ほぼ同時期に、God Save the Queen という曲をリリースしていることはよく知られています。クィーンのほうは正真正銘のイギリス国歌を最高傑作といわれるアルバム『オペラ座の夜』のフィナーレとして演奏しているのですが、ピストルズのほうはパンクロックの真骨頂という曲と王室やエリザベス女王を侮辱していると言われる歌詞とで物議をかもした代物です。ちなみに冒頭の歌詞はこんな感じです。

God save the Queen, her Fascist regime
It made you a moron, potential H-bomb

God save the Queen, she ain't no human being
There is no future, in England’s dreaming

今年、そのピストルズのGod Save the Queenがロンドン・オリンピックの開会式の音楽にイントロと最初のフレーズだけカットインする形でリミックスされていたことで、再び話題になりました。プロデューサー(『トレインスポッティング』の監督ダニー・ボイル)の遊び心もしくは何らかの意図の表れだったのでしょうが、エリザベス女王その人もいらっしゃる会場でいわくつきのパンク版国歌を流すとは。

パンクロックが英国文化の一部であることを印象づけた出来事でした。ボイルの冒険心に私は感銘を受けましたが、反抗的でオルターナティブな文化をも呑み込み同一化して英国文化という財を拡大させ、国家の活性化に利用しようというしたたかな文化政策なのかもしれないとも感じました。

ちなみにamazon.co.jpでは7インチ・アナログが8000円くらいで売っているようです。
http://www.amazon.co.jp/God-Save-Queen-inch-Analog/dp/B000UR1GV0

(早・sarara)

2012年9月13日木曜日

みなさま

こんにちは。
芸大のkalingaこと畑まりあと申します。
まだ暑い日が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか。
このブログにて、「野点in大槌」開催のご案内をさせてください。

岩手県の大槌町といえば、3.11による被災の状況がメディアで数多く取り上げられたので、
みなさんの中でも、大槌という町の名前をよく聞いたことがあるという方もいらっしゃると思います。
今年の2月から企画の開催が決定し、現在に至るまで、地元の人をすこしずつ巻き込みながら、準備してきました。

東京からはやはり遠いですが、もし関心がありましたら是非いらしてください。
質問などありましたら、お気軽に畑までご連絡ください。
marianflowers@hotmail.com

以下、案内文です。
よろしくお願いいたします。

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きむらとしろうじんじん「野点」この秋、大槌にて開催!

お茶碗に絵付けをしたり、お茶を飲みながらおしゃべりしたり。
地域の方によるカフェや湧水ツアーなど、お楽しみ企画も乞うご期待。
いろとりどりのお茶碗に囲まれながら、大槌の魅力を味わいに来ませんか?


きむらとしろうじんじんの「野点(のだて)」とは?----------------
陶芸+お抹茶屋台です。素焼きのお茶碗をひとつ選び絵付けをし、
樂焼き(らくやき)という方法で焼き上げられた自作のお茶碗で
お茶をお楽しみいただけます。
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【開催概要】

日程・場所・テーマ:9月29日(土)常楽院(大槌町赤浜1)
                 「ひょうたん島を、語りたい。〜海を眺めながら〜」
          10月3日(水)桜木町児童公園(大槌町桜木桜木町西側突き当り)
                 「桜木町で、逢いましょう。〜公園カフェ〜」
          10月7日(日)大槌駅前広場(大槌町本町1-1)
                 「駅から湧水、徒歩5分。〜カフェや音楽やパフォーマンス〜」

開催場所地図:http://goo.gl/maps/Q2zUe
          
※全日雨天決行です。ただし、荒天の場合は、場所を変更したり・中止する場合がありますので当日お問い合わせ下さい。

開催時間:11時頃から日暮れまで

お茶碗絵付:1個 1500円
お抹茶:1杯 300円
※お茶碗をつくる場合の所要時間は、約40分以上です。
※1日につき35個限定なので、売り切れの場合はお許し下さい。


【大槌(釜石)までのアクセス】

◉JR東北新幹線 新花巻駅、または東北本線花巻駅乗り換え 釜石線で釜石駅下車。

◉夜行高速バス
 [遠野・釜石号](岩手県交通)
 東京(池袋・秋葉原・上野)発、大槌バイパス着
 
国際興業バスHP:http://5931bus.com/kosoku/tono-kesen.html


【釜石駅から開催場所までのアクセス】

 岩手県交通バス 赤浜・波板線にて大槌方面へ。

◆常楽院
 釜石駅前乗車(岩手県交通バス)―赤浜で降車。
 赤浜停留所より徒歩。

◆桜木町児童公園
 釜石駅前乗車(岩手県交通バス)―マスト前で降車。
 マスト前(大槌町民バス)―桜木町公園前で降車。
 桜木町公園前停留所より徒歩。

◆常楽院
 釜石駅前乗車(岩手県交通バス)―中央公民館入口で降車。
 中央公民館入口停留所より徒歩。

 岩手県交通バス 赤浜・浪板線 時刻表
 http://www.iwatekenkotsu.co.jp/rosen-jikoku/morioka/110314pdf/engann/20120401/kamaishi-yamada(20120401).pdf

 大槌町民バス時刻表
 http://www.town.otsuchi.iwate.jp/docs/2012020100026/
 ※バスの本数が少ないため、事前にご確認下さい。

 ☆高速バスでお越しの際は、<大槌バイパス停留所>より<マスト前停留所>まで徒歩で移動可能です。
  <マスト前停留所>から岩手県交通バス・大槌町民バスをご利用いただけます。
 
 ☆上記の他、釜石駅前にてレンタカーのご利用をお薦めいたします。


【お問い合わせ先】
  ひょっこりひょうたん塾 事務局
 〒028-1131 岩手県上閉伊郡大槌町大槌24-24-2
 Email:hyotanjuku@gmail.com
 Tel:090-6229-4621
HP:http://hyotanjuku.jimdo.com/


主催:ひょっこりひょうたん塾、大槌町、東京都、東京文化発信プロジェクト室(公益財団法人東京都歴史文化財団)、
   特定非営利活動法人いわて連携復興センター
協力:一般社団法人谷中のおかって、東京藝術大学熊倉研究室
   ※ 本事業は Art Support Tohoku-Tokyo(東京都による芸術文化を活用した被災地支援事業)です。
   ※平成24年度科学研究費基盤(A)(1)「社会システム<芸術>とその変容」補助事業
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(芸・kalinga)

2012年8月8日水曜日

ラジオとテレビで 予約会員の数を伸ばす

皆さん、はじめまして、青山学院大学M1のスウです。
中国からの留学生です。日本語の勉強は3年目に入りましたが、変な日本語はまたたくさんを使っています。
もし間違えた日本語をつかったら、皆さんはご許しください。
「青・さいとう」さんが紹介した通り、青学の「文化行政制度論」前期最後の授業で、「予約会員獲得のすすめ」この本からテーマを取ってディスカッションしました。
私は本の20章「ラジオ・テレビの公共サービス時間はありがたい」に興味を持って、詳しく読んでまとめました。
このまとめた内容を皆さんに紹介したいです。

今の時代、ラジオとテレビ膨大な視聴者数を持っているので、ラジオやテレビが舞台芸術団体の会員募集キャンーペンにとって大きな力になり得る。
本によって、舞台芸術団体はラジオやテレビを利用する方法は2がある:
1. 地元のラジオ・テレビ局から無料サービスを取り付ける。
アメリカの通信委員会は、ラジオ、テレビの放送事業者に免許を与える際に、非営利団体のために公共の役に立つ情報を提供するために放送時間を割くことを奨励する。芸術団体はこの無料の時間帯を利用して、会員募集のキャンペンを展開する。
しかし、この時間を得る競争がとても激しい。団体側は会員募集キャンペーンに関連した出来事について、ラジオ・テレビ局の担当者宛に絶えずニュースを送らなければならない。
2.芸術団体は商業局との協力

(1)非営利団体に特別割引を提供してくれる商業局で有料のスポットを流す。
a) お知らせを流してもらう放送局に手数料を払って、会員募集を委託するという方法もある。
b) 希望者は電話か郵便で放送局に申し込み、放送局は自局が直接集めた入会申し込みの総額に対して一定の手数料を受ける。
芸術団体は商業局に支払う手数料は僅かなものであるが、なぜ商業局は芸術団体に協力するの?
それは、劇団(他の芸術団体も同じ)というのはいつも自分の商品がなかなか売れないで困っている商売だが、その会員募集という難しい仕事を引き受けて、自局の販売力を潜在スポンサーに見せ付けたいである。

(2)スポットの回数に応じて会員券を提供するというやり方:放送局はその券を自局  
が主催する何かのコンテストの商品にしたり、スポンサーへのギフトとして利用する。(売れ残るだけの券を提供するのだから、失うものは何もない。)

(3)芸術団体は商業局との協力し、イベントを行う。この中に、最も注目されるのは「テレソン」と「ラジソン」(「テレソン」は中断することなく長時間放送されるテレビ番組。ふつう、慈善募金用の番組や選挙番組で行われる。ラジオの場合は「ラジソン」である。)
 日本に「テレソン」といえば、憶えだすのは慈善のための「24時間テレビ」(NTV)とFNS27時間テレビ(CX)などである。芸術団体が芸術団体募金(会員募集)のための「テレソン」はあまりない。アメリカには、そういう「テレソン」はたくさんあります。(おーグランド交響楽団の「シリーズ・チケット・テレソン」など)「テレソン」と「ラジソン」を通じて、予約会員の数は多く伸びた上に、単券売りさえ活気作り、潜在客層も発見された。

テレビやラジオを利用して、予約会員を募集(寄付を集める)場合には、例のイメージ広告的なアプローチは避けたほうがいい。代わりに、「舞台芸術を支援しよう」といったあいまいなメッセージを使ったら、いい効果が出る。
今日、ラジオやテレビを利用するのプロモーションは、芸術にとって不可欠である。もちろん問題はいろいろある。まずはテレビ局(ラジオ)を引き込むことから。


この章の中に、一番興味深い内容は「テレソン」と「ラジソン」というイベントで芸術のことを宣伝するところです。慈善のための「テレソン」はたくさんありますが、日本と中国芸術のための「テレソン」はあまりないです。アメリカとヨーロッパはどうやって成功しましたか?
「テレソン」に詳しい方がいらっしゃったら、ぜひ教えてください。

青・スウ

2012年8月6日月曜日

『予約会員獲得のすすめ-奇跡をよぶ財政安定化マニュアル』

本の紹介です★
青学の「文化行政制度論」前期最後の授業で、この本からテーマを取ってディスカッションしました。

★『予約会員獲得のすすめ-奇跡をよぶ財政安定化マニュアル』(著者:ダニー・シューマン、発行:芸団協出版部、2001年)

タイトルにある「予約会員」とは、一年間や半年など、公演のシーズンなどと呼ばれる、一定の期間内に上演される複数公演全てに来場することを前提として、一括で複数公演のチケットを購入(セット券、シーズンチケットなどとも言います。)する人、またはそういう人を囲い込む制度(メンバーシップ、友の会などと言います。)に入っている特定の客層を指します。

本の副題に「財政安定化」という言葉がありますが、毎年一定の時期にまとまったチケット収入を見込めるこの方法は、
興行団体、劇場などにとって公演の売り上げ予測を立てることは言わずもがな、最大のメリットとして一度に大きなお金を得られる点にあります!!!

30章ある中で、特に「チケット売場で予約会員にどう対応するか-予約の変更」の章が興味深く、日頃の自分の仕事(チケット管理、票券担当などと言い、チケットに関する全ての作業と管理を行います。)と併せて、予約会員を対象としてはいるものの、直接的な対面の場における接客の心構えについて、再度確認する内容だと感じました。

公演当日の入口に設置する受付テーブルにいらっしゃるお客様は、当日券購入、予約済みチケットの引き取りや精算、招待者へのチケットとパンフレット渡し+挨拶、チケット紛失や忘れ等の対応、既に持っているチケットを別の席に変更希望など、事前に予測できる対応とその場の判断が求められるケースがありますが、全ては「劇場での時間を楽しく過ごす」ことに集約され、その目標を達成するため、団体や劇場のルールや考え方をベースに丁寧さや誠実さなどが個別対応として重要になり、もてなされている実感やチケット代を払って鑑賞経験を得ることへの納得、満足等に繋がるのだと振り返りました。(私自身は、チケット料金の高低に関わらずこの気持ちが大切だと考えています★)
(青・さいとう)








2012年8月1日水曜日

観劇とドレスコード

はじめまして。お茶大のSSと申します。よろしくお願いいたします。

突然ですが、皆さんは劇場に観劇、または音楽会などに行く際、「何を着ていこうか?」と普段悩んだりはしますか?

そして実際、どのような服装で行かれますか?



私は先日あるクラシックのコンサートを観に東京文化会館へ出向きました。その日は某音楽大学の学生達が団体で観劇に来ていたようなのですが、その学生達の服装に私は思わず目が点になってしまったのです…。

Tシャツに半ズボンにビーチサンダルの男子学生達がぞろぞろ。キャミソールに短パンにサンダルの女子学生達がぞろぞろ。
正直言って、そのまま海に行けるのでは…?という服装の学生達がたくさんいて、(もちろん全員がそうだったという訳ではありませんが…)一部からは、日本のムジーク・フェラインとも称される東京文化会館のホワイエにはあまりに似つかわしくない光景だ、と私は感じました。


私が劇場に出向いてこのように感じたのはこのときが初めてではありません。年間少なくとも15回近くは劇場に行っていますが、毎回首をひねりたくなるような服装をした観客を目にします。

以前、某音楽大学に通う友人と観劇に行った際、彼女の服装はデニムの短パンにサンダルでした。私は、音大の学生のくせに(言葉が悪いですが)そんな格好で来るのか!!と勝手に怒りを覚え、彼女に「劇場に来るのにその格好なの?」と尋ねたことがあります。その時の彼女の回答はこうでした。


「私はそういうの気にしないから」


当時、その回答にもなんとも言えない怒りを覚えたのですが、私は彼女にそれ以上何も言い返せなかったのです。
というのは、私が何に対してそこまで怒りを覚えているのかがはっきりと分からなかったからです。

そして今でもなぜ私が観劇の際の服装に関して毎回憤りを覚えるのか、はっきりと説明がつきません。


そこで、皆さんの中に同じように感じている方がいらっしゃらないか?そういう方はなぜそのように感じているのか、意見を伺いたいと思い投稿させていただきました。


私は劇場に観劇に行く際、何を着ていこうか、と毎回少し悩みます。

というのは、あまりにひどい格好で行くのは、舞台で精一杯パフォーマンスをされている方に失礼だと思うからです。

でも、デニムは失礼だけどスーツなら失礼じゃないのか、と言われると何も言い返せません。
そういう問題じゃない!と言いたいところですが、「私はそういうの気にしないから」という人にとっては、問題はそこなのでしょう。


劇場芸術の観劇料はかなり高額なため、劇場芸術は敷居が高いと感じている方も多いと思います。

しかし、一方でその敷居の高さに魅力を感じているという方も多いのではないでしょうか?

そういう方たちにとって、高いお金を出してチケットを買い、ちょっとおしゃれをして出かけ、素敵なレストランで早めのディナーを楽しみ、休憩にはシャンパンで乾杯し、最高のパフォーマンスを観て帰宅する…というような、一連をすべて終えたところで「観劇を楽しんだ」と感じているのではないでしょうか?


現実的に、そういった人たちのみをターゲットにした芸術というのは成り立っていかないでしょう。NBSが格安の学生券やエコノミー券などを販売し、敷居が高いと思われる劇場芸術が一般の人にとってすこしでも身近になることは、芸術家にとっても芸術振興の意味でも非常にプラスになることです。

しかし、だからといってその芸術鑑賞の場が環境がガラッと変わってしまう事はプラスではないと私は思います。


西洋では、劇場にといえばかつては上流階級の人々が赴く場所であり、現在でもドレスコードがついていて、劇場に相応しくない服装の人は注意を受け、入場できない場合も多くあります。
しかし時代と共にファッションも変化し、「劇場に相応しくない服装」を見極めるのは難しく、観客と揉めるケースもある、と英国ロンドンのロイヤルオペラハウスに勤める友人が話をしていました。


デニムが悪くてスーツが良いとは思いません。

でも、劇場に芸術鑑賞をする際にはやはり「劇場に相応しい服装」で行って欲しいと思ってしまうのは私の考えが古いのでしょうか?


皆さんはどう思いますか?


(茶・SS)




2012年7月31日火曜日

つながりのコミュニティ

みなさん、こんばんは。芸・nbkmです。
ブログを通して、さまざまな意見交換が行われていて、非常に興味深く参加させていただいています。

私の所属する研究室では、文化・芸術と社会課題との関わりも、研究の焦点となっています。
何より、学生が運営を担うプロジェクト全てがそのような側面を持っています。

そういった関心から出会ったある本を紹介したいと思います。

佐藤友美子・土井勉・平塚伸治『つながりのコミュニティ 人と地域が「生きる」かたち』(岩波書店、2011年)です。

コミュニティ論なのですが、新たなコミュニティのあり方として紹介されている事例には、
「アトリエ インカーブ」や「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」なども紹介されています。
事例検証を踏まえて、現在コミュニティというものがどのように機能しているのかについて書かれているものです。

インカーブの事例では、障害者と社会をつなぐものとしてのアート、
越後妻有の事例では、土地の人、外部の人をつなぐものとしてのアートということで、
人と地域が「生きる」かたちを形成していくための重要な資源としてアートが取り上げられていました。

私たちの研究室で行っているプロジェクトにおいても、起こせる何かは小規模かもしれませんが、
アートが地域に関わる意味が非常に大きいことは間違いありません。
「コト」を仕掛ける側にいる我々にとって、アートと地域が関わることにどのような意味があるのが、
それによって何がもたらされるのか、地域の人々にその地域の資源として受け止めてもらえるのか、
といったことを考えることは非常に重要です。

この本は、実践を主軸におく我々にとっては、そこに起きた現象をどのように言語化するかのヒントになるし、
研究を主軸におく方々にとっても、今どういう現象が起きているのかを、実践的視点から知ることができるので、
非常に興味深いのではないかと思います。
3.11以降に出版された本なので、被災した後の社会のことも考慮してあると思います。

ぜひ読んでみていただけると嬉しいです。


(芸・nbkm)

一体感のあるコンクール

はじめまして、茶・umeです。

遅れをとりまして、本日初コメント・初投稿になってしまいましたが、みなさんのご投稿とても興味深く、記事を拝読し楽しくコメントさせていただきました!


今回は、先日スタッフとしてお手伝いに伺った、とある日本歌曲のコンクールについて、印象的だったことを中心に書きたいと思います。


当コンクールは平成2年に発足し、出場者は228人と極めて多く、その年齢層は20歳代~80歳代と幅広く、参加者の所属もさまざまです。実際に行ってみるまで、このように広くながく親しまれている秘訣は何なのだろう、と考えていました。コンクールというと、競争の場であるために、クリティカルな視線が飛び交い、会場全体が独特の緊張感で満たされていると想像する方も少なくないのではないでしょうか。しかし、実際にスタッフとして参加してみると、上述の通り多数の出場者の中でハイレヴェルな争いが繰り広げられるにもかかわらず、単に技術を競うだけでなく、全体が一体となって、日本歌曲を楽しみ探究しようとする一体感のある催しであるように感じました。


実際に現場でふれあってみて肌で感じたのは、その場に集っている人々の目的はさまざまですが(個人的なことも含むので詳細は割愛します)、しかし音楽に対して心から取り組もうとする姿勢であるということは共通している、ということです。とりわけ、他の出場者の歌唱に合わせて小さく口ずさみ、「この曲好きなんだ。来年はこれにしようかな。」とおっしゃっていた方や、歌い終わった後に、溌剌と「やっぱり歌うっていいことね。ぼけ防止にもなるわ!」とおっしゃっていた方が印象的でした。

また、出場者がその場でどのようなことを疑問・不安に思うか、等を考えながら行動するよう心がけましたが、それとは逆に、参加者の人柄や温かな雰囲気のおかげで会が円滑に進み、それぞれの相互作用の上で成り立っているということも、身を以て体験しました。


私が今回お手伝いさせていただいたこのコンクールは、20年以上にわたって培われてきたコンクールの伝統と、企画・運営者のご尽力、人々の交流・連帯感が作用し、コンクールという競争の場にとどまらずに、普段さかざまなコミュニティーに属する人々が集い、それぞれに音楽を追求しながら、全体で一体となって日本歌曲を味わい醸成していくような場として機能しているということが、素晴らしい特色であると感じました。日本においては、とても希少なものなのではないかと推測しますが、どう思われますか。

このコンクールのような性格を有した催し物をご存知の方は教えていただきたいです!(茶・ume)

こどもと文化政策(と広報と市民としての自覚?)

みなさんはじめまして。お茶大のjasmine@seaと申します。
書きたいことがいろいろありすぎて、何を書こうか迷っている間に、こんなギリギリになってしまいました笑

迷った結果、今回は自己紹介を兼ねて、私の子ども時代の経験から、「こどもと文化政策」についてお話しすることにします。

私は現在お茶大M2で日本近世史(≒江戸時代)を専攻し、副専攻として博物館学を学んでいます。このブログに集っている方々は、「文化」と聞くとダンスや音楽など「芸術文化」「アート」をまず連想される方が多いかと思いますが、私は生活全般といった意味合いで「文化」を捉える傾向が強い人間です。大学では「芸術文化」に触れる機会はなく、これまで芸術文化をアカデミックに考える機会もありませんでした。普段の生活でもそれほど意識することはありません。

かといって私が芸術文化に全く興味がなく隔絶された生活を送ってきたというわけではありません。

特に子どもの頃は、夏休みになると連日のようにあちこちの劇場で開かれたイベントに参加していました。私は横浜市出身なのですが、みなとみらいホールでパイプオルガンも弾きましたし、渋谷の円形劇場?で幻想的なお芝居も観ました。
また、私の弟は横浜能楽堂で開かれた「こどものための狂言ワークショップ」に参加したことがあります。これは夏休みに数日間のワークショップに参加した後、希望者はさらなる練習を積み実際の能舞台で演じることができるものです。色々な学年のこどもたちが一緒になって練習をし、本物の舞台で演じたことは、10年経った今でも忘れられない経験となったようです。この横浜能楽堂は平成17年度のJAFFAアワードに選ばれています。(私は間違いなく参加者の中で最年長になることに恐れをなして、応募しなかったのです・・・。モッタイナイ!!)

またこうした芸術文化分野だけでなく、動物園で図鑑を作ったりバックヤードに行って掃除をしたり、自然系・歴史系・技術系など様々な博物館に行ったりと、多様な分野の文化イベントに参加していました。一日で渋谷にあるNHK、電力館、たばこと塩の博物館、プラネタリウム、こどもの城を回るのは、夏休みのテッパン行事でした笑

こうした経験たちは間違いなく私の世界を広げてくれました。みなとみらいホールでは、横浜にちなんでかもめの形にデザインされたパイプオルガンであることを知り、ますます横浜という場所が好きになったことを覚えています。また同級生の多くが学校の勉強を教科書の範囲内ででしか捉えられないのに対し、私たち姉弟は学校で学んだことを博物館や動物園で見聞きしたことと照らし合わせて、実際の世界に位置づけて理解できていたように思います。

これらたくさんのイベントに参加できたのは、私の母がこうしたものに関心が強く、自治体の広報紙をくまなくチェックして応募してくれたからです。(私の母は、母の母、つまり私の祖母にやはり夏休みにいろいろなイベントに引っ張り回されたそうです笑)ですが、母曰く、こうしたイベントへの参加方法が分からないというお母さん方が多かったといいます。

こうしたイベントは間違いなく参加する価値があるものだと思います。さらに、こうしたイベントは「招待」が多く、参加費がかからないものも多いです。

より多くの子どもたちに参加してもらうためには、イベントを提供する側が確実に情報を届けるための工夫を凝らすことも確かに必要だと思います。ですが、私は市民が市民としての自覚をしっかりと持って、行政が提供しているサービスを積極的にキャッチしていくという姿勢が非常に大切ではないかと思っています。

私自身も市民としての自覚を持って、提供されているサービスを貪欲に利用していこうと思っています。

簡潔に意図を伝えるのはなかなか難しいものですね・・・笑
みなさんはどんなイベントに参加したことがありますか??


茶・jasmine@sea

ダンスであることの意味について悩んでいます

皆さまこんにちは!芸大のありおといいます。(女です)


現在学部3年で、舞台芸術と身体表現のゼミに所属して勉強しています。
小さい頃は、地元のスポーツセンターでやっている子供バレエ教室に通ったりしていたのですが、今現在は大学にてコンテンポラリーダンスを教わっています。入学当初はコンテンポラリーダンスをほとんど知らなかったので度肝を抜かれましたが、今は大好きなのもそうでもないのも、色々見て見解を深めているところです(^^)

いきなりお悩み相談みたいになるんですけれど(苦笑)、今悩んでいるのは、ダンスはどうあるべきか ということです。
私のゼミでは気軽に作品制作ができてやりたければ誰でも自主公演を行えるのですが、私は今まで制作や出演者として参加することはあっても自分の作品をつくりたい、もしくはつくれる、と思ったことはありませんでした。ですが3年生になってやっと、自分でも自分の作品づくりをしたいという意欲がものすごい出てきて、制作を始めようとしているところです。その時になって、改めて「なんでダンス?」とか、「観客に対して何をどうしたいの?」といった問題にぶち当たりました。

芸術が誕生して必要とされている意味や理由みたいなものは多々あると思いますが、美術や音楽を省いてとりあえずアート作品としての『ダンス(+演劇・パフォーミングアーツ)』というものを考えると、ダンスと娯楽性は切り離せないものだと思います。しかしそれと同時に社会性も持っていなければいけません。ダンスも沢山のジャンルやタイプが生まれてある意味「出尽くした」と言えるかもしれない今、ただ単に好きだからといった動機だけでやったってそんなに意味はないし、ダンスが何を問えるのか、提示できるのか、こういうことを考えはじめると何だかもうぐちゃぐちゃーってなってしまいます(笑)経験不足に知識不足ですね…

また、国によっても「ダンス」の持つ意味は異なってくると思います。ダンスで仕事をしている人の立場や在り方も全然違うと思います。日本の場合はどうなんでしょう。ただ世間一般的に見て、いち職業として確固たる地位を与えられているようには見えません。悩んでしまいます…


こんな感じでだらだら書いてしまいましたが、皆さんにとってのダンス観とか伺えたら嬉しいですし、もちろんダンスでなくても何でも、ぜひ色々と教えていただければと思います(^^) よろしくお願いします!


(芸・ありお)
初めて投稿させていただきます。
東京藝大学部3年の森本菜穂と申します(芸・nahoで投稿させていただいています)。
笠原さんや小林さんと同じく一般社団法人谷中のおかってというアートプロジェクトを企画運営する団体に参加させていただきながら
「ぐるぐるヤ→ミ→プロジェクト」に関わっており、この現場とは今年で3年目のお付き合いになります。

わたしは昨年と今年でタイプの違う2つの企画を担当しました。
最近それぞれの魅力と難しさについて考えることが多くなったので、こちらに書かせていただきます。

昨年担当したのは、京都在住の陶芸家きむらとしろうじんじんさんによる「野点」という企画です。
招聘したアーティスト、じんじんさんはとても有名な方なのでご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、
ドラァグクイーンのような出で立ちのじんじんさんがリヤカーに素焼きのお茶碗と陶芸釜、釉薬を積んでまちに現れ、
まちの風景や行き交う人々の中でお抹茶陶芸屋台をおこなうという企画です。
日常的な風景の中に、派手な装いのじんじんさんと窯を囲んで人々が集まっている場が立ち上がる光景は非日常的で、
何が起こっているのか、誰が集まってきているのかというわくわくするような謎と魅力を感じられます。
今年度は岩手県大槌町で開催予定です。



そして、今年度担当していて、いま開催まっただ中なのが「谷中妄想カフェ〜ちょうちんもってちょっとそこまで〜」という、夜の散歩企画です。
この企画は〈谷中のおかって〉のオリジナル企画です。
情緒あふれる台東区谷中地域の静かな夜のまちなみを個性的なナビゲーターに導かれてめぐり歩き、
ろうそくの火が灯されたちょうちんのあかりで味わう散歩を提案しています。
昨年に引き続き2年目の開催です。

↓〈谷中のおかって〉blog
http://blog.okatte.info/?eid=37
↓TABlog「谷中妄想カフェ~ちょうちんもってちょっとそこまで~」-昨年開催の際に記事にしていただきました。
http://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.ja/2011/08/moso-cafe-yanaka.html


この2つの企画の大きな違いは、魅力的な存在の"アーティストとその作品"があるか否かです。
「野点」の運営の際にはじんじんさんと話し合いを重ねながら〈谷中のおかって〉にとっての開催の意味合いも考えて運営していましたが、
その根本にはやはり「野点」のコンセプトが大きく存在し、その周辺を固めていく作業が主になっていました。
なおかつまちの方や行政の方に説明をおこなうときにもパッと派手なビジュアルが示せることや、
じんじんさんの言葉を咀嚼して伝えられることにもどこか寄りかかってしまっており、
〈谷中のおかって〉が当企画をおこなう意味合いを言葉にしていくのは最も重要なことでありながらなかなか考えられていませんでした。
またじんじんさんはファンが多く、スタッフやお客さんの呼びかけをおこなうと遠方からたくさんの方々が訪れました。


しかし、「谷中妄想カフェ」の場合は目玉アーティストが存在しません。
つまりコンテンツを充実させ、それを発信していく方法も工夫していかなければ人を集めることも出来事を起こすことは出来ません。
本番ナビゲーターやパフォーマーをやっていただくのは〈谷中のおかって〉の声かけによって集まったボランティアスタッフのみなさまです。
彼らに気持ちよく関わっていただき、力を存分に発揮していただくことが企画の魅力に直結します。
また、まだ若い団体ですがファンの獲得にも力を入れていかなければなりません。


いま、このコンテンツの魅力を企画運営側で共有していくことの重要さ、そして難しさを感じています。
業務連絡のためのミーティングだけでは共有しきれない、言葉にすることも難しいような魅力の予感を話し合うことの必要性、
またそのためのチーム作りがいまさらながら課題になっています。
このままでは外から人を呼び込み受け入れていくための器が用意できないと感じ、少々焦っています…

最低限の運営スキルを身につけ、現場を安定したものにしていくことに加え、
アーティストが居るかどうかに関わらず、「この人たちと一緒に活動してみたい!」と思っていただける団体になることが、
継続して文化を創造していくという流れに身を置いて活動するために必要なことだと感じています。


そのメソッドはおそらく存在せず、出来事を起こし続けることでしか得られないと思いますが、
これからもその部分にも意識をおいて取り組んできたいと思っています。

(芸・naho)

2012年7月30日月曜日

地域・町文化の輸出


こんにちは。
はじめまして、お茶大のA@g.economicです。
夏本番を迎えて、皆様いかがお過ごしでしょうか。


まずは自己紹介から。

私は社会人学生で、経済地理専攻なのですが、「文化マネジメント」ってどういう意味なんだろう?
と思ったことと、以前から私の研究テーマに含まれている、
「ローカルミリュー」と文化との関連性について理解するためにも、
「文化」を勉強しなくては!と考え、授業を受講しました。

ミリ ュー (miーieu) という単語は 「環境」 を意味するフランス語 で,
自然環境の他に、社会的文化的な環境を意味する言葉として使われているようです。


経済地理では、地域などの空間分析もしています。
その中には経済や文化、政治などの様々なアクターが重なっており、
私自身、経済と文化は、かけ離れたところに位置しているものではないと思っています。


この授業を通して、新しい知識を習得できたことや、
実は文化がとても身近に存在しているということがわかり、私にとって、非常に有意義なものとなりました。


私は文化に関する知識がまだ少なく、勉強をはじめたばかりで、提供できる情報量も少ないですが、
今回は、諏訪への滞在を通して思い至った、
グローバル経済の発展おける文化伝播や保存に関して、少し感想を書きたいと思います。


私は、7/24日~28日まで、産業集積に関する調査の一貫で長野県・諏訪に滞在していました。
諏訪は盆地のため、昼は暑くて、夜は過ごしやすかったです。
滞在期間中に地元の美術館に立ち寄ってみたのですが、
諏訪地域には質の高い美術館や博物館が多く、その数の多さに驚きました。

諏訪湖周辺を散策したのですが、北澤美術館をはじめとして、美術館や博物館が集積していて、
授業で先生からお聞きした博物館や美術館が抱える運営の問題などが頭をよぎりました。


諏訪の人たちにお話しを伺うと、諏訪人には「諏訪人気質」というものがあり、
戦国時代から、つぶされても、また新しい技術を身につけるということを繰り返しながら、
生き残り策を見い出し、発展してきたそうです。

妥協のない職人気質があり、個々人の知識レベルが非常に高く、
グローバル感覚が強い人たちが多いことも「諏訪」の個性だと感じられます。
(諏訪ご出身の方がいらっしゃれば、ぜひお話をお聞きしたいです。)


多くの美術館を目にして、産業同様(諏訪は「東洋のスイス」と呼ばれていますが・・・)、
文化についても、グローバル化を背景に、
地域・町単位で文化を世界に輸出すると、どうなるのだろう。などなど考えることが多くありました。

たとえば、「○○町」、「○○地域」そのものを『○○町スタイル』として輸出し、
定着させるというような・・・。
⇒秋葉原などの「空間」が定着している状態に少し近い感じでしょうか。
(このブログ関係者には文化に詳しい方が多いと思われますので、
是非、具体例などご存知の方がいらっしゃれば、お教え頂ければ幸いです。)


日本の魅力を日本国内はもちろん、海外へも発信し続ける活動は、
数多く存在していると思われますが、文化の継承や保存には、担い手の問題もあるかと思います。

「場所」を選ばなくてもよいのであれば、
輸出文化が良い形で利用されると、活性化する地域や施設が増え、
文化の継承や保存、経済的にも良いのでは。と思いました。


課題や問題点もあるとは思いますが、
民間や行政に、文化継承に関するポジティブさがあれば、
そうした課題や問題点も、少しずつ改善していくことができるのではないでしょうか。


文面ではなかなか上手く伝えられないこともありますが、
芸大 kalingaさんがご提案されているoff会も、ぜひ実現させたいですね!
機会がありましたら、皆様とぜひいろいろお話ができれば幸いです。

(茶・A@g.economic)


日本の街並


はじめて記事を投稿します.よろしくお願いします.

私は修士論文の研究を「路地・横丁」に関するテーマにする予定なので,このブログでもそのことについて書いていこうと思います.

東京内には主に江戸〜現代にかけて時代とともに様々な路地や横丁ができてきました.
例えば...
神楽坂の入り組んだ路地は江戸時代の花柳界とともに,
上野のアメヤ横丁は戦後の闇市から発展しています.
建築史家の陣内秀信氏は路地や横丁を『末端に無数のミクロな都市空間があり都市社会の安定を生む』日本(江戸,東京)特有の都市のスケールだとしています.
私も路地や横丁は日本の歴史や文化に関わる重要な街なみだと考えています.

ところが今後,路地や横丁はなくなっていくかもしれません.
なぜならば日本の建築基準法では
『建物の敷地は幅員4メートル以上の道路に接している必要があり,その要件を満たさないと建築は認められない』
とされています.
路地や横丁は4メートル以下の道路に接しているものがほとんどです.
なので,もしも建て替えを行なう時は建物がたっている敷地を削ってそこを道路にして幅員を広げてから建て替えなければなりません.

路地や横丁でこの建て替えが起こっていった場合(実際,路地や横丁内の建物は老朽化しているものが多々ある)どうなるでしょう.
道幅が広げられ,『ミクロな都市空間』はなくなってしまいます.
もちろん,防災防火や先にも述べた建物の老朽化など路地・横丁にも様々な問題があるのは確かですが...

関東大震災や戦争の空襲を間逃れてきた数少ない昔からの路地や横丁もなくなるしかないのでしょうか.
著名な建築家が建てた建築や景観が美しい街と同様に残していくことはできないのでしょうか.
また,皆さんは残すべきだと思いますか?考えをお聞かせ頂ければうれしいです.

お茶・saa





ヨーロッパの夏はフェスティバル・シーズン

20日にすべての授業を終え、本務校での入試説明会を21日に終え、22日にドイツに向けて飛び立ち、昨日戻りました。今回は、研究の打ち合わせと、州立図書館での資料閲覧だったのですが、夜はフェスティバル・シーズン真っ盛りのヨーロッパを楽しんできました。クラシック音楽ファンには、堪えられないです。夏のヨーロッパは本当に気持ちよくて楽しいです。今年はドイツも珍しく猛暑のような暑さでしたが、からっとしているので日本よりはずっと過ごしやすいです。ちなみにヨーロッパのアートマネジメント研究では、フェスティバル研究は重要な領域の一つです。

私が出かけたのは、ミュンヘンのオペラ・フェスティバルと、ニュルンベルクの国際グルック・オペラ・フェスティバルですが、この時期は本当にフェスティバルまっさかりです。ちょうどザルツブルク音楽祭やバイロイト音楽祭が開幕した時期だったので、連日、ニュースでは開幕の模様が報道されていました。こちらがそういう目で見ているからかもしれませんが、日本に帰ってきたらオリンピック一色なのとは大違いという印象です。「今年も、夏のオペラのフェスティバルが開幕しました」という感じで(日本だとフジロックかなぁ)、それだけでもわくわくします。フェスティバルは、シーズン中の公演とは異なり、著名な歌手を呼んできての公演になるので、チケットも高額になりますが、それでも日本で公演を見るのと比べれば、ずっと安いですから、満足度も相当に高くなります。チケットは取りにくいですが、皆さんも是非、夏のヨーロッパを経験してみてください。

見たオペラ
ヴォツェック、ホフマン物語、トスカ、エレクトラ、トゥーランドット、ポンテのミトリアーデ。

(M.K)

劇場における“教育”の側面



日中国交正常化40周年を記念し両国の国立劇場である、新国立劇場と中国国家大劇院が、オペラの共同制作公演を行い、7月27、29日に新国立劇場にて『オペラ・アイーダ』が開演された。欧米の歌劇場で活躍する日本、中国の歌手陣が揃い、両劇場の総勢100名の大合唱とともに、祝祭的なオペラ「アイーダ」を歌いあげる。
今回私は当劇場の〝アカデミックプラン〟のプレゼントキャンペーンに当選し、観劇することとなった。アカデミックプランとは、25歳以下の青年が対象で、オペラのS、A席のチケットが5000円、バレエ、ダンス、演劇のチケットが定価の半額で購入できる。また、オペラのゲネプロを無料で観劇でき、定期的にイベントやお得な情報が届くという活気的な企画である。参加方法は新国立劇場のサイトで登録し、抽選に応募するというものである。私は前回当選した「ローエングリン オペラゲネプロ鑑賞会」の観劇を含め、今回が二回目の参加となった。以下に、当プランの仕組みや、劇の感想を述べる。当選のメールには、チケットの受け取り方法の他、以下のような事項が記されていた。


「2つほどお願い」
ひとつめ:日中の共同企画のこの公演は、中国側も素晴らしい歌手に参加していただいております。国を超えたこのパフォーマンス、互いをリスペクトし合い、きっと素晴らしい音楽が奏でられることと思います。どうぞ観客の皆様は良い演奏には惜しみない拍手と、「ブラボー!」の声をよろしくお願いいたします。
ふたつめ:夏の暑い時期のこの演奏会、特にドレスコード(服装指定)はありませんが、よろしければちょっとお洒落していらっしゃいませんか?皆様のような若いお客さまがちょっと素敵な格好でいらっしゃいますとロビーの雰囲気や公演全体が華やかになりますので。


このように、劇を盛り上げてもらおうという意図が伝わる。とりわけ、今回は記念すべき日中国交正常化40周年という国家間の重要な行事でもあるため、当選者は祝賀ムードを盛り上げる要因でもある。チケットの受け取り方法は、アカデミックカウンターにて名前を告げ、チケットを受け取るという簡単な方法であり、他の機関を通すことが一切ないため利用し易い。席は一階席と無料招待にしては好待遇であり、四階席で観たゲネプロに比べ、音の響きも格別であった。
場内の客層を見渡すと、客層は老年代の方が多い。アカデミックプランは、格式が高いというイメージや、金銭面で劇場に足を運び辛い若い世代に対し、様々な企画を設け、そのような“制限”を緩和する目的があるのだろう。残席を埋めるという目的ならば、対象を限定する必要はないが、なぜ“若者”に向けているのか。
以下は、パンフレットに記載している新国立劇場についての一部抜粋である。

若い世代に優れた生の舞台を鑑賞する機会を提供することも重要な役割の一つとしており、「高校生のためのオペラ鑑賞教室」、「こどものためのオペラ劇場」、「こどものためのバレエ劇場」などの教育・普及公演を開催し、将来の観客育成にもつとめています。


アカデミックプランは上記の企画の対象者に比べ、年齢層の高い、より学究的な者を対象としている。芸術とは無目的である、芸術を享受するには段階を踏む必要がある、という考えがある。私は、芸術が人間に及ぼす影響とは何か、という問いに確実な答えを出すことはできない。また、芸術を教育の目的とするにしても、その成果ははっきり表れるものではない。しかし、芸術とは定義できない。ある種、未知の可能性を秘めている。また、歴史的にも明らかであるが、芸術は大きな影響力を持つ。ならば、芸術に“教育”という目的を持たせ、最も感受性の豊かな世代に対し、最も上質な芸術を提供することは望むべきことではないか。今後も劇場に、芸術をさらに“教育”の面でも発展させていって欲しい。

日中国交正常化40周年記念 2012「日中国民交流友好年」認定行事
オペラ「アイーダ」<コンサート形式/カットあり>東京公演
台本 アントーニオ・ギスランツォーニ  作曲 ジュゼッペ・ヴェルディ  
日時:7月27日(金)5:00 29日(日)2:00
会場:新国立劇場オペラパレス
指揮:広上淳一
出演:ヘー・ホイ/水口聡/清水香澄/ユアン・チェンイェ/妻屋秀和/ティエン・ハオジャン
合唱:新国立劇場合唱団 国家大劇院合唱団
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

(茶 A.O)

2012年7月29日日曜日

サルサ

はじめまして。お茶大のE.salsaです。昨日はオリンピックの開会式に癒されました!
これまで様々なジャンルのダンスに挑戦してきたのですが、今年の3月から夢中になっているサルサ、特に日本(東京)でのサルサ事情について紹介します。イベントを作ろうとしていますので、コメントをいただけると嬉しいです。

サルサは元々南米のダンスですが世界中で踊られています。パフォーマンスもされていますが、ペアで即興で楽しく踊るものです。男性がリード、女性がフォローをします。音楽に合わせて基本のステップをひたすら踏みながら、男性が女性の腕を持ち上げたり肩や腰を押したり引いたりして合図をし、女性がそれに応えて体の向きを変えたりターンしたりするのです。足を踏みかえる、体重移動の瞬間に上手なリードがきて曲に合わせてくるりと回れるととても気持ちいいです。イメージとしては、動く歩道から降りる時の感覚です。自分で歩いているのですが歩道によって勢いがつけられているので自分の力だけで歩くよりも勢いよく、大きく前に進みますよね!あの感覚を次々と味わえるダンスです。一方男性は、「女性を自分の思う通りに動かせると気持ちいい」と言います。

サルサが生活の一部となっている地域では、子供の頃から大人の真似をして踊り、青年になると恋人と踊り、年をとると目を閉じて音楽を楽しみながらゆったり踊る、そんな風に一生サルサを楽しみます。お父さんやおじいさんにレディーとして扱われ、大切にリードされて、女の子は自分を安売りしないようにと教えられます。お母さんやおばあさんをリードすることで、男の子は女性は大切に守らなくちゃいけないんだと学びます。こんな生活からサルサだけを切り取って趣味として日本にもってきたら、どうなったと思いますか?始めたばかりの私にはちょっと受け入れがたいことがいくつかあります。

まず、セクハラが多発してます。驚くことに、「サルサでも習わないと異性に触れる機会のない人」がたくさんいて、手をつないで踊るうちに相手も自分が好きなんだろうと勘違いしてしまうのです。

また、好きな時に好きなだけ踊るのが難しい状況です。サルサ人口がまだまだ少ないので、相手を選んでいたら踊る人がいなくなってしまうという環境なんです。海外ではカップルやグループでクラブに行き、疲れたらお酒を飲みながら休憩し、好きな曲がかかるとまた踊ります。カウンターでたまたま隣に座った人と意気投合して「では一曲踊りますか?」ということもあります。

しかし日本では1人で踊りに行く人が多く、全く知らない人同士がどんどん手を取り合って踊ります。基本的に男性が女性をダンスに誘います。中には誘われずにずっと壁際で座っている女性もいるし、誘って断られ続けて踊れない男性もいます。ちなみに友達とかファンとかで、女性が男性を誘うこともあります。(その場合男性は絶対断ってはいけません。)女性は誘われなくなるのが怖いので、休みたい時でも、そしてあまり好みではない人でも、声をかけられると大抵踊ります。嫌いな人を断る時の常套句が「いま休憩してるので…」なので、本当に休憩したい時でも、相手に「断られた!もう彼女は絶対誘わない!」と思わせないために踊るんです。

セクハラするような、また、そこまでいかなくともデリカシーのない、サルサ以外では異性と交流できない人を完全に排除した毎月開催のパーティーをつくろうとしている友人がいて、手伝っています。今までに2回開いていて、彼と私の知り合いばかり呼んで開いたので変な人は来なかったのですが、初心者ばかりなのでレッスン+飲み会という雰囲気になってしまい、自由に踊る人は少なかったし、参加人数自体もかなり少数でした。つてのない、サルサが踊れるお客さんにも参加してもらい、でも変な人は排除するためにはどうしたらいいでしょうか??いくつかの老舗のイベントでは、ドレスコードや「セクハラしたら出入り禁止にしますよ」という張り紙をするなどの工夫をしていますが、どれも成功していません。一度参加してくれた人々に口コミで広めてもらうしかないんですかねー。
(茶・E.salsa)

指定管理者制度

こんにちは。
お茶大のMMMです。

私は物理学専攻なのですが、「文化マネジメント」ってなんだろう?
わからないけど面白そう!と思い、授業を受講しました。
受講してみて、今まで知らなかった知識や見方を得られ、とても有意義でした。
私は文化・芸術に関する知識が浅く、あまり提供できる情報もないので、
今回は授業で学んだ「指定管理者制度」に関する感想を書きたいと思います。

文化マネジメント論の授業で私が特に興味深いと思ったのは、「指定管理者制度」についてです。
指定管理者制度は、皆さんもご存じのとおり、公の施設の管理・運営を地方公共団体等だけでなく、民間企業やNPOなどを含む幅広い団体に代行させることのできる制度です。
私は授業で初めてこの制度について知りましたが、きちんと活用されれば非常に良い制度だなと思いました。
民間が運営する方が利用者にとって便利なサービスが増えることも多いと思いますし、
集客ノウハウも行政より民間の方が長けており、またコスト意識が高く効率的な経営が可能だと思うからです。

例えば、私は千代田区立図書館を何度か利用したことがありますが、ここは22時まで開館しています。
私は以前、千代田区内の企業で会社員として働いていたことがあるので、会社帰りにこの図書館を利用していました。
ふつう図書館というと、大体20時くらいまでしか開館していないので、
会社員が仕事が終わった後に利用するのは時間的に難しいことが多いです。
しかし千代田区立図書館は22時まで開館しているので、珍しい図書館だな、便利だな、という印象をもっていました。
今、指定管理者という制度を知って、改めて調べてみると、千代田区立図書館は
2007年に指定管理者による運営を開始してから、22時までの開館だけでなく、
その他多くの新しいサービスの企画・開発が行われ、
来館者数を大幅に増やしたことで注目された図書館だったようです。

もちろん、指定管理者導入・運用にあたっては、
利便性や収益だけでなく、文化・学術的な内容・水準が保たれているかなどを
行政がモニターしていく必要はありますが、
この制度が良い形で利用されて、活性化していく施設が増えると良いと思います。

実際に運用していく上で、色々な課題や問題点もあるとは思いますが、
指定管理者を選定・評価する行政側に、この制度を最大限に活用する意欲・能力があれば、
そうした課題や問題点も、少しずつ改善していくことができると思います。

また、芸術・文化に関わる職業につきたい人にとっても、この制度によって活躍の場が
多種多様に増えるのではないでしょうか。

(茶・MMM)

復活しました。

一時期ブログが使えない状況になっていましたが、復活しました。
どうして使えなくなっていたのかはわかりません。おそらく投稿している時に誤って削除をしてしまったことなどが考えられますが、気をつけましょう。
よろしくお願いします。
(M.K)

2012年7月27日金曜日

中国の少数民族文化政策について(ocha.YING)

 

はじめまして、お茶大のocha.YINGです。

私は中国からの留学生で、朝鮮族です。多分皆さんもご存じだと思いますが、中国には漢民族以外に、55の少数民族があります。朝鮮族もその一つの例です。これらの少数民族は、各自の文化、伝統、言語を持ってます。中国では、各少数民族自分の文化発展を支援するために、多元文化政策を進めています。今日は、中国の多元文化政策について話したいです。

中国では「わが国は、統一的な多民族国家である」と主張し、人数が圧倒的に多く、各分野で主導的役割を果たしている「漢民族」と、固有の文化をそれぞれ持っている「少数民族」とが互いに尊重しながら国家の建設を進めるようにしています。少数民族に対して、政府からいろいろな優遇政策があります。食物配給制の時代に、少数民族は漢民族よりいい食品が配給されていました。うちのおばあさんの話によると、1960年代にうちは米が配給されたが、隣の漢民族はコーンが配給されました。いまでもいろいろな優遇政策があります、たとえば、少数民族には二人の子供を産むことが許されること、少数民族の学生は大学入試試験でプラス五点などの政策があります。

それでは、少数民族の文化を発展向上させるために、どんな文化政策を施行しましたか?中国政府は民族文化を尊重することを原則として、さまざまな少数民族文化振興政策を作りました。一つとして、国が資金を投入し、少数民族自治地区に公立文化施設(文化ホール、博物館など)を建設することによって、少数民族各自の芸術文化、歴史文化を発展させます。私も延辺朝鮮族自治州で育てられたが、今も子供の時におばあちゃんと一緒に州立文化会館で朝鮮族踊りを見に行ったことを思い出せます。他として、少数民族文化芸術人材を奨励すること、漢民族少数民族文化交流活動の開催、少数民族文化資源の保護などの文化政策があります。

しかし、私の目から見れば、少数民族の文化は全体的に漢民族文化の同化される傾向があります。少数民族優遇政策がありますが、政治、経済、文化などの分野で実はほとんど漢民族が主導権を握っているため、多くの少数民族は社会の発展に従い、自分の民族特徴を失っていきます。漢民族の各少数民族の学校も自分の言語より北京語(中国の標準語)を重視しています。漢民族と結婚する少数民族もだんだん多くなり、その子供はほとんどもう少数民族の言語が話せないケースもたくさんあります。

56の民族がある中国で、多元民族文化を発展させるに、これらの文化政策で本当に民族文化の維持を保証できるかと私はよく思います。みなさんはどう思いますか?

2012年7月26日木曜日

- 新しい(?)形の検閲についてー 写真展「重重-中国に残された朝鮮人元日本軍『慰安婦』の女性たち」の事件(?)から

こんにちは。 始めまして。私は東京芸術大学M1のjinと申します。暑い中、皆さん元気で過ごしてますでしょうか?まず少し自己紹介をさせて頂きます。私は韓国人の留学生で、学部(韓国の大学)では心理学を勉強しました。心理学を勉強したからか、理由は良く分かりませんが、現在、アートマネジメントの勉強をしながらも常に個人の問題や社会問題に目が向いてしまいかちです。研究したいテーマも簡単に言えば‘社会包摂’に関するアート活動です。(日本の様々な活動を知りたいので教えていただくと、とてもありがたいです。)
早くここに文章を書こうと思いましたがなかなか出来ず、今になってしまいました。前からみなさんが書いた文章を読んで, 同じ分野にもかかわらず個人の関心事や観点がこんなに多様なんだと感じて刺激も受けたし,勉強にもなりました。
私は一ヶ月前ぐらい,facebookを通じてこういうことを知られました。新聞にも記事化されたので読んだ 方々もいらっしゃるかもは知れません。
簡略に記事による内容を整理しますと,“名古屋に在住している韓国人写真家安世鴻さんの写真展、「重重−中国に残された朝鮮人元日本軍『慰安婦』の女性たち」が7月に新宿のニコンサロンで開催される予定だったが,写真展に関する抗議が殺到したことから、開催予定日の先月である6月になって突然′中止決定になった。またその理由は展示内容が政治活動に当たるという理由だった。安さんはこれに不服としてニコンが予定通り写真展を開催するよう求める訴えを東京地裁に起こし、6月22日東京地裁からニコンに写真展の開催を命じる 仮処分が下され,予定通り写真展が開かれた。” という一連の内容でした。
写真展が開かれた後にも色々なことが起きたと分かっています。
私は最初、この事件(?)に接した時, 率直に言わば,一人の韓国人として感情的に反応しました。
しかし, このようなことが特に芸術文化の分野ではどの国でも,あるいはどんなジャンル,どんなテーマを問わず発生するのではないか!ということを悟った(?)ので、少し違う観点で私が感じたことや気になったこと などを書いてみようと思います。(たくさんコメントしてください。! 私が思いもよらなかった部分を共有できたらと思います。)

 
まず, 私がこの事件(パッと思いつく言葉が無いので事件といいます。)を知って,最初に思ったのは今の時代で‘検閲’は誰によって行われているのかということです。既存で‘検閲’はたいてい国家や公権力によるもので, それによって‘表現の自由’は抑制, 抑圧されて来たことは世界史の流れで簡単に見られます。現在には憲法第21条で検閲を禁止,‘表現の自由’を保障させているし, 今度の事件でもその憲法に基づいて,東京地裁から写真展を予定通り開催を命じる処分が出たと考えられます。
国家は表現の自由を保障させているのに比べて,今度の事件で見れば, ‘ニコン’という企業やその企業に圧力をかけた‘団体あるいは市民’が‘検閲’の主体として機能しているのではないでしょうか?
現代社会においてはどうやら, 国家や公権力による検閲よりは企業や団体, すなわち社会的に権力を持っている誰かによる‘検閲’がもっと行われているのではないでしょうか? そうだとしたら芸術,創作活動に対する‘検閲’はいつも行われていると見られます。(実際にこの事件が起こって,写真家たちの間では本当に,安さんの写真展がニコンによって中止になったら, これからニコンサロン(権力者)で展示をしようとするアーティスト (非権力者)らが自分の表現が歪曲されたり、抑圧されることになることを憂慮する声が多かったです。)
“それが事実だ。”(つまり, 社会的権力を持った企業や機関による検閲が存在する。) と言ったら, アーティストとそういう表現者や表現活動を企画, 運営をする側に要されることは何でしょうか?私が思ったことはどんなにその活動, あるいは作品の価値を普遍的に,一般的なことにさせるかについての洗練されたデザイン(設計ですかね?)が必要なのではないかと思いました。
今度の例をみると,‘韓国人‘写真家が政治的色が多いテーマ扱って(そのように思われたから),‘日本’で展示をする際には反発があることがもしかしたら当たり前なのです。(写真家の本来の意図でこのような反発が起きるのを願ったし,それによる波及を狙ったことだったら,今度の展示やその結果はとても成功的だと判断されますが, もしかそうではないと言っても,このような一連の過程で‘写真’が持っている影響を改めて感じることができます。)
そうだとしたら,この写真展が追い求めること,価値が何なのかを見せることに対するデザインが充分に設計されたらどうだったでしょうか?写真家である安さんはあるインタビューでこう述べました。
“慰安婦の問題は日本と韓国だけの問題ではない。性の問題は世界の戦場で今もある。歴史的な反省と評価がなければ過ちは繰り返される。」私はこの言葉にまったく同感します。そうだからこのような彼の意図あるいは価値観がみんなと共有できなかったのが残念で,このような面から彼の活動や価値をどのような形で 見せるのかが共に設計されなければならないのだと感じました。
必ずしもそれが,アーティストがすべきことではないが,少なくとも企画,運営をする立場では必要ではないでしょうか? 連れて,表現活動,芸術活動をするにおいて政治的見解を異にする,あるいは価値を異にする集団の圧力に現場ではどんな対応が必要でしょうか?? これはただの質問ですが…(現場経験が多い方のアドバイスを…)
文章をまとめようと思います。
事実, 私はこの写真展に直接に行って見てないため,その内容がどうだったかについては言えないですが,この写真展をめぐって起きた裁判と日本国内の反応,またそれによる韓国内の反応,また国内外のアーティストたちの反応などを記事とSNSで見ながら,‘写真展’というのが及ぼす影響(個人と社会に及ぶ影響)とそれによる結果がどうか新しく分かりました。
個人的には,これから現場で活動をして,その活動の価値をきちんと考え、みんなに知らせるためには非常にたくさんの勉強をししなければいけないと言う決心をするようになりました。
それでは, 今日は以上で、また書きたいことはありますが、次回に書けたらと思います。
コメントよろしくお願いします。

 
芸大 jin
参考記事 

人形浄瑠璃文楽への誘い


こんにちは、芸・fmiと申します。コメントではお邪魔していましたが、記事投稿ははじめてです。よろしくお願い致します。


さて先日、私は文楽公演に行って来ました。大阪にある国立文楽劇場での「夏休み文楽特別公演」内、第3部サマーレイトショーの『曽根崎心中』です。
公演2日目ということで、客席は満員。席も2列目とあって、至近距離で堪能してきました。お初可愛かったなぁ。

『曽根崎心中』は大変有名な演目なので、ご存知の方も多いと思います。江戸時代、大阪で実際に起きた心中事件が元になっているのですが、それが脚色され文楽として上演されたのが、なんと事件のたった1か月後!しかも主人公の「お初」「徳兵衛」は実名そのままです。今じゃ考えられませんよね()。当時の舞台はワイドショー的な要素が強かったんですね。

今、文楽といえば大阪市の補助金カット問題が話題になっていますよね。が、私はこの騒がれ方には少々疑問を感じております。
というのも、「市長vs文楽そのもの」の対立にすり替えて煽るような報道や論調が多く、それにより本当に議論されるべき問題(文楽協会のシステムや意義、天下り問題、補助金の使い道の正当性など)が隠れてしまっているように見えるからです。
また芸術ファン界隈でも、現状の検証無しに「文楽(芸術)=善」「補助金カット=悪」という単純な善悪二元論に終始した論調が多く、正直少し複雑な思いです。

私は文楽が好きですが、現行のシステムや運営法に問題が無いとは思いません。また補助金が市民の税金から賄われている以上、それの使い道に対する「議論」や「検証」はあって然るべきだと思います。
ただ、今の状態ではその議論、話し合い自体が成立していないように感じるんですよね…。
(ちなみに、文楽協会の意義を巡る議論は、文楽劇場開場のころからあったようです。しかしその後30年間放置され、今に至ります。)

とはいえ、これだけ注目が集まっている今は、文楽にとってある意味チャンス。これを機に少しでも興味を持つ人が増えればいいな…と思います。
皆さまも、この夏是非公演に足を運んでみて下さい。学生は学割が効き、約半額で観ることが出来ますよ!

大阪では国立文楽劇場で8月7日まで、東京では国立劇場で9月5日〜24日まで公演があります。




(芸・fmi)

2012年7月24日火曜日

広報について

みなさま、楽しい夏休みを始めていますか。
芸大のHyo(ヒョウ)です。

私は先週まで韓国に行ってきました。74日から20日まではソウル・マージナル・シアター・フェスティバルが開催されました。私がコーディネーターを務めているフェスティバル/トーキョーに比べると50分の15分の1ではありません)の予算で開催されるフェスティバルで、全体的な規模はもちろん小さいです。厳しい予算の中でも今年は15演目がプログラムされ、私が観劇した演目はどれも観客がいっぱいでした。

フェスティバルで作品を制作する予算はなかなか削減が出来ないので、少ない予算は人件費と広報に直結します。そこで日本の舞台芸術における広報について改めて考えるようになりました。

私を含め海外からの人が日本の劇場に行って驚くことの一つは、ものすごい量のチラシが置いてあることです。また、どの劇場やフェスティバルに行っても、パンフレットやチラシ等広報用の資料がとても充実しています。最初は紙がもったいないとか、お金かけてるね、くらいを思ったのですが、自分がフェスティバルに関わってからは、あまり大したこともないチラシ一枚を作るのにも大変な作業が必要だということが分かりました。フェスティバル/トーキョーでもパンフレット一つ作るために、20人ほどのスタッフが長い間取り組まなくてはならないのです。

海外のアヴィニョンフェスティバルやクンステンフェスティバルのようにもっと規模の大きいフェスティバルにもパンフレットはありますが、ほとんど文字中心にしてシンプルな編集になっているので、手間はそれほどかけなくてもよさそうです。また、公演直前まで決まらないことも色々あるので、パンフレットに乗ってない情報や間違ってる情報もあります。もちろん、その部分はネットの情報やフェスティバルセンターのようなオフラインの空間で補われます。

形を重視する日本の文化の中でも、劇場での広報は特に時代遅れではないかという気もしますが、すでにこのような広報に慣れてそこから情報を得ている観客も多いので、もっと効率的な方法がないかなぁというのが、最近私の悩みどころです。

(芸・Hyo

2012年7月21日土曜日

自己紹介と告知

こんにちは。
東京芸術大学M2の山崎と申します。
ようやく夏本番と思いきや、昨日・今日はびっくりするほどの涼しさですね。

さて、初めての投稿なので、まず自己紹介からさせて頂きたいと思います。
私は学部から東京芸大にいまして、身体表現・舞台芸術について学んでいます。
大学入学後からダンスを始めて、あれこれ模索しつつ作品をつくったり公演を行ったりしてきました。
昨年10月にひとつ区切りとなる公演があり、その後小休止期間を経て、
最近はセッションイベント等に参加して踊ることが多くなっています。 
ダンスといっても、バレエやモダンダンスを本格的に学んだ経験はなく、舞踏とマイムを基にしています。
ジャンル的には、コンテンポラリー・ダンスということになるのでしょうか…

ということで、今回はいま関わっている企画をいくつかご紹介したいと思います。
(宣伝です!)

ひとつめは、今年5月から始まった「空宇宙室」。
サウンドアーティスト・美術家の中川敏光さん、グラフィックデザインユニットの
TRAPEZE COMMUNE(トラピーズ・コミューン)、舞踏家の嶋田勇介さんが中心となって発足した企画で、
毎月1回、音楽と舞踊による実験的公演イベントを行っています。
私はvol.1、vol.2と参加させて頂き、来月11日のvol.4にも出演予定です。
会場となる「Chapter2」は、横浜の長者町にあるアート拠点「CHAP(長者町アートプラネット)」の二階。
元ダンスホールの趣きある空間で、音楽やダンスのイベントの他、
ワークショップや展示などにも使えるレンタルスペースとして運営されています。
空宇宙室はまだ始まったばかりですが、こうしたイベントをきっかけに
異分野のアーティストやクリエイターが出会ったり、
様々な人間の交流が生まれる場となってほしいという期待をもっています。

ふたつめは、 街をぶらりと歩きながら出会うパフォーミングアート&ミュージックLAND FES」。
来月、8月の2〜5日です。
吉祥寺の街に設定された4つの会場で、音楽とダンス、パフォーマンスのセッションが行われます。
出演者と組み合わせは各回ごとに異なりますので、お見逃しなく。
こちらは初めて参加させていただくので、どんな様子なのか、どんなことになるのか分からない部分もあり、
なかなか未知数でどきどきです。

最後に、「三宅島在住アトレウス家」。
実はこちらが最も説明の難しいものであります。
「アトレウス家」のプロジェクトは東京文化発信プロジェクト・東京アートポイント計画のプログラムであり、
「墨田区在住アトレウス家」「豊島区在住アトレウス家」を経て、
今回はついに(?)東京の離島・三宅島へ行きます。

…長くなりましたので、続きは改めて書くことにしたいと思います。

(芸・ヤマザキ)









2012年7月19日木曜日

地域の文化


お茶大の舞踊専攻、みそと申します。
 私は、学部の時代から関わってきて修士論文の研究対象でもあります、民族芸能を紹介したいと思います。
 実は本番が、つい先日の7月14日に行われました。東京都大田区の厳正寺で行われる「水止舞」という三匹獅子舞で、東京都の無形民族文化財に指定されています。雨を止ませるための舞という言い伝えがあります。日本では雨乞いの祭りなどは多いですが、逆に雨を止めるというのはとても珍しい行事です。
 
本当は事前に告知し、このブログを読んでいる方々にも観に来ていただきたいと思ってはいたのですが準備に忙しく・・・というのも、今年は私自身が獅子舞を舞わせていただく機会を頂いたからなのです。私は静岡出身で、大田区には縁もゆかりも全くないといっていいのに、舞う機会を与えて頂きました。本当に運が良かったし、恵まれていたと思います。大森の方々に感謝です。私は来年から就職しますが、続けて獅子として出演していきたいと思っています。

 と、このようなかたちで関わっている水止舞ですが、私が特に面白いと感じるのは、水止舞が「地域の文化」だというところです。先生の講義のなかでも、文化によって地元のアイデンティティを感じようというような、文化の1%システムが取り上げられていました。一方で、この大森では、700年以上(おそらく笑)も「水止舞」という文化が受け継がれ、そこからアイデンティティを得ている人々が集まっています。舞手や笛士の中には、サラリーマンで地方に転勤になった人も何人かいますが、水止舞の練習と本番は必ず大森に帰ってきます。地元に文化があって、それが人々を魅了し帰る場所を提供するなんて、とても素敵なことだと思います。私の地元にはそのような行事はないので、特にうらやましいと思いますし、だからこそ研究対象にしたのかもしれません。

 文化は人を引きつけます。決してフリルなんかではない、人々の生活になくてはならないものだと、水止舞に関わっているとそう思います。
 みなさんの地元には、そういう文化はありますか。このブログの感想でも、なにかお話を聞かせて頂けたらと思います。
 写真は2010年の様子です↓


 

(茶・みそ)

「邦楽モデル事業」


皆さん

はじめまして、東京芸術大学M1のizdyです。

初投稿なので、まず簡単な自己紹介をさせてください

出身地は中国(C.N)の山東省で、中、高、大学校ずっと中央音楽学院(北京)でお箏の勉強をしていた。正直に言うと、今まで歩んできた人生のなか、音楽(演奏)以外のことを真面目に考えたことほとんどないです。自分が納得できる音楽を創るため、ひたすら腕を磨く、聞く相手やそもそも自分がどうしてその人たちに選らばられたのかでさえ無関心のままでした。

それは日本に来て、初めてアウトリーチ(学校との連携)という活動の存在を知る時に不思議を感じた理由かもしれないです。皆さんにとってたぶん耳になれたことかもしれないですが、演奏家がわざわざ学校にいって、将来必ず音楽の道を選ぶとはいえない学生たちとワークショップ(しかも、技術ではなく、コミュニケーション重視なの?!)をやるなんて、最初、この私にとって「本業外」のことにしか思えないです。

今もアウトリーチの意味をまだ理解しきれないですが、その中に、財団法人地域創造と島根県・(財)島根県文化振興財団の共催によって、2009年度に実施された「邦楽モデル事業」という興味深い事例があります。

(財)地域創造では公共ホールを媒体とし、地域においてクラシック音楽を身近なものとするために行う「公共ホール音楽活性化事業(音活)」で、アーティストと学校のコミュニケーションをよりよく結ぶことができると知っていますが、やはり、クラシックがメインで、邦楽があんまり公共ホールの事業として取り上げられていないと感じていました。それはなぜかというと、日本の伝統音楽としての歴史や色々なルールがあって(しかも、中国のお箏の世界と違って、流派間の壁が厚いと聞きましたが)、なかなか手が出せないところがあります。

また、「邦楽の世界では一般のお客を対象にした演奏会をやるということにはほとんどなく、家元制度で弟子さんをたくさん抱えていた方がステータスは高いわけです」(片岡リサより・箏曲演奏家)、それは邦楽が公共ホールに対する依存性が低く、お客さんに対する意識も希薄である原因の一つでしょう。(中国のお箏の世界でもほぼ同じような状況ですから、思わず「そうだよ~」と頷いた。)

でも、「ずっと自分の世界に籠っては事業が進められない」、「和楽器のすばらしさを地域の子供達に伝えたい」と考える演奏家、コーディネータ、島根県芸術文化センターの職員と一緒に、23日の合宿型手法開発研修を組み立てたうえ、5ヶ月の期間で、小学校4年から中学3年まで9校全12クラスで邦楽アウトリーチを行いました。

子供が和楽器に対する興味を引き出し、邦楽鑑賞を習慣として身につけ、そして、いつか親連れ(笑)して、ホールに足を運ぶお客さんになったら(つまり観客・聴衆育成)、邦楽事業や公共ホールにとって重要な目標の達成だと私が思います。

このような短期間のワークショップや研修では、日本の伝統文化やその礼儀作法を教えるのは相当難しいことですが、お箏の音色を楽しんでもらい、和楽器を`体験`することができれば、目標へは大きな一歩を踏み出したのではないかと思います。

「邦楽モデル事業」が今後に向けて、研修経費の捻出や学校側への事業説明などさまざまな課題があります。特に「リクエストやニーズに対応できる柔軟性のある演奏家は非常に少ない現状」で、古典的なアーティストたちも、自分が持つ社会的役割をこれからどう果たすのかを見直すべきではないですか。

私自身がアートマネジメントという領域についてまだまだ知らないことがいっぱいいっぱいですが、こういう自分の過去(お箏)と現在(アートマネジメント)を繋げる事例を見つけて、すごくワクワクしてきました。

今年、9月下旬~11月中旬に(財)地域創造・邦楽活性化事業として、千葉市で行う邦楽アウトリーチに参加させていただきました。

得た経験や面白いエピソードやまた報告いたします!

では!

よろしくお願いします!



(芸・izdy

2012年7月18日水曜日

すみだストリートジャズフェスティバル


初めまして。
投稿よりもコメントからいきなりお邪魔しました、青・Ne3です。

皆様の投稿を読んでいて、「へ〜そうなんだ」と言う事や共感できることが多く、楽しみに拝見しております。

私は現在いくつかの文化関係(芸術というよりポップカルチャーより)の活動にオン・オフ関係なく携わっております。
俗にいう「お祭り女」というところでしょうか。w
例えば、東京コレクション(商業的な色満載のガールズのほうではありません。)やすみだストリートジャズフェスティバルが今まさに携わっている大きな企画です。
このほかにも個人的立ち上がった演劇集団に属してみたり、パブでコンテンポラリーダンサーとセッションライブをしてみたりと、ライブペイントとライブ演奏を一緒にやるバンドを組んでみたりと怪しいことばかりやっておりますw
怪しい活動は後々紹介するとして

さて、今回はすみだストリートジャズフェスティバルをご紹介。

これは、今年で3年目を迎える、錦糸町駅界隈〜スカイツリーの地域の町中の約30ヶ所をステージにし、8月の土日2日間ジャズ漬けになるフェスティバルです。
また、ジャズ=ジャム=町に調和すれば何でも来いと解釈し、スポーツイベントやアートイベント等、幅広く取り入れている現在非常に求心力のあるイベントです。
1年目には2万人来場、2年目は雨にも関わらず4万人来場、そして今年は10万人!(きてほしい)
墨田区は元々多方面において文化が栄えていますが、どうしても浅草辺りが盛り上がってしまいます。
錦糸町だってかつては銀座に負けない繁華街。
人口密度が高い(確か東京都で3位くらい?)東のこの町を文化の町にしよう、そして文化で盛り上げようと住民や町好きが立ち上がった訳です。

主催は「すみだストリートジャズフェスティバル実行委員会」これは自治体でも企業でもなく、地元住民やすみだ好きなど個人集団の集まりです。
「はい、やりたいです」が集まってるわけで、NPO法人でもありません。

私はここで「Tシャツプロジェクト委員長」を担っております。
もちろん、個人ボランティアです。
え?ジャズフェスのTシャツプロジェクトってなんのこっちゃ??
と思われるかと思いますが、これは非常に重要なポジションです。
すみジャズに関して書きたいことはいっぱいありますが、今回はここの部分にフォーカスしてみます。

どんなイベントを行う上でも「運営資金」はかかってきます。
どんなに機材をただで協賛してもらっても、多くのお力をお借りしても、
すみジャズを行うには例年1200万円近くかかっています。

まず、「地域発信型」=「常に資金不足」なのは想像できるかと思います。
では、協賛金を取れば?とお思いでしょうが、それだけではまかなえません。
じゃあ助成金は?もちろんたくさんに申請して、1円でももらえるように実行委員長含め努力していますが、経産省もcool Japanが仕分けされたりで、大きな額はそれほど望めないのが実情。
とすると収入が望めるのは物販しかないのです。
もちろん、屋台は出ますが、例えば300円の焼きそば、1000食売っても30万円です。
頭がいたくなっちゃいますね。

そこで、単価が高くなるような物販を売りたいと思いますが、ロレックス売ったって誰も買いませんよね。
じゃあ、「フェスでそこそこ単価を上げられる商品ってなんだろう」

そこでTシャツの登場です。

え?なんでそこでTシャツなんだ?と思う人もいるかと思いますが、
「日本の音楽フェス文化」を考えると、フェスとTシャツが良い関係であることが分かります。(フェス知らない方は画像検索で「フェスT」と検索してみてくださいね)

大きなフェスでは必ずと言っていい程オリジナルTシャツを売っています。
だいたい25003500円てとこですよね。
Tシャツ自体の原価は企業にもよりますが安くて700800円。
あとは計算してみてくださいね。

お客さんとしてフェスでTシャツを買うメリットは

・一体感を味わえる
・お土産になる/記念になる
・家で使える(着替え用にも利用できる)
・老若男女販売対象を選ばない
・そんなに高く感じない(焼きそばに2000円は出せないが、Tシャツだと思うと妥当)
・コレクション精神をかき立てる

などなど。
また、錦糸町はものづくりの町で、繊維関係も優れているので、そういった地元と連携することで、町としても地元企業が絡んでいるということにすごく誇りを感じてくれるんです。また、町おこしは本来はその町が活気づくことが目的なので、ただ売るのではなく、どうすれば町のためになるのか、金銭面も精神面も、そして文化面からもも考え、物販を販売していくことになります。そのためにはまず今の町を知らなくてはならないわけです。
たかだか物販、されど物販なのです。
私も含めですが、どうしても全体の企画・運営といた魅力的な部分にとらわれがちですが、こういった草の根の役割を知ることも、意味のある企画を作る上で重要なんですよね。

特に「一体感を味わえる」というのは、こういったフェスに限らず多くの文化活動の観客側が本来味わいたい潜在的欲求で、こういったことを少しでも満たす、くすぐることが、次回の観客を育てることにつながるんですよね。また、このファン作りをしていくことで、このイベントを支え育てていこうという文化が作られていくと思います。継続してやっていけるいい企画になるかどうか、すみジャズはちょうど育っている途中なのです。

ということで、今回はここまで。お時間ある方は是非!


イベント名
3回すみだストリートジャズフェスティバル

日程
2012818()


19()



会場
錦糸町駅および東京スカイツリー周辺の墨田区内 屋内外約30ステージを予定(全会場入場無料




(青・Ne3