2012年6月30日土曜日

劇場法について

皆さん、どうも初めまして!東京芸術大学院修士1年の「芸・Marimo」です。よろしくお願いします。
まずは今までやってきたことと興味の対象について紹介します。僕は大学在学中に、劇場付属のカンパニーに所属しました。そのときに、社会における劇場のあり方やレジデンシャルカンパニーをもつ劇場が地域の人々にとってどのような役割をもつのかということに興味をもち、講義を受講しました。


さて、ご存知の方もいらっしゃると思われますが、最近「劇場法」(正式名称は「劇場、音楽堂等の活性化に関する法律」)なるものができました。劇場法というのは、国が劇場の役割を規定し、なぜ劇場が必要であるかという根拠を与えるものであります。劇場法が作られる以前は「文化芸術振興法」の理念によって、劇場や公共ホールの実演芸術が振興されていました。では実際に「劇場法」ができたことによって以前とどのような変化がもたらされるのでしょうか。「劇場法」の賛否について見ていきます。

まず、日本における公共ホールは法律によって「集会所」としての役割をもっていたと言えるでしょう。というのも、優れた設備をもつ公共ホールはたくさんあり、貸し館として使われる公共ホールが大半であったからです。よって公共ホールは芸術を生み出す場としての役割を規定されるものではありませんでした。このような背景にあって「劇場法」ができたことで予算の取り付けのときに国に対して、自主事業の正当性を明らかにすることができると考えられます。これが「賛」の部分にあたると思われます。

  一方で、「否」の部分は実際には結局何も変わらないという点です。それはまず、平田オリザが「劇場法」に組み入れたかった、各劇場への明確な予算配分は実現しなかったということが挙げられます。国がもし劇場や公共ホールにある一定の予算を配分したら劇場は付属のカンパニーをもったり、貸し館中心ではなく様々な自主事業を催すことができたりするのだが。
また、各地の条例などによってすでに前述した正当性が確保されていたところもあります(例えば、静岡市や新潟市など)。「劇場法」がより細かい規定を盛り込むことができたとしたら、すでに条例によって正当性を確保している劇場付属のカンパニーや様々な自主事業を行う劇場はより自由にその特色をだすことができただろうに。

このように考えてみると、残念ながらこの度の「劇場法」には現場への効力はあまりないように感じられます。しかし、「劇場法」が成立したことは、国と劇場との関係を深める契機となったのではないでしょうか。したがって、公共ホールはこの「劇場法」を鑑みることで今後どのような事業を展開していくのかが鍵になっていくのではないでしょうか。

劇場法や劇場に関するコメントなどありましたらよろしくお願いします。



関係ウェブサイト
「劇場、音楽堂等の活性化に関する法律」
(http://www.bunka.go.jp/bunka_gyousei/hourei/ongaku_houritsu.html)

(芸・Marimo)


2012年6月29日金曜日

東日本大震災と文化の継承

(先ほど、タイトルをつけ忘れたので再投稿します)
はじめまして。お茶の水女子大院のharu@sanrikuです。

本題を説明するためにも、まずは自己紹介から。
お茶大の学部卒業後、東北地方の新聞社で12年間記者生活を送り、この春より
仕事を一時休職して、お茶大院で学ぶ社会人学生です。
東北の地方紙の記者としてのもろもろの取材経験から、地方自治体の文化政策、
市町村合併、文化財や伝統芸能の保存・・・などなど関心だけは山ほどあるのですが、
まずは、現在の東北地方にとって、また日本にとっても最大課題であろう、
東日本大震災について、「文化の復興」の観点から問題提起してみたいと思います。
私自身、津波被災地の岩手県宮古市出身であり、
震災からの復興については、特別な思いがある、ということもあります。

震災後、取材で被災各地を歩いてきましたが、
災害、そしてそこからの復興は、その地域にとっての「文化とは何か」を突き付けてくるものでも
あると感じています。

被災地では、博物館、美術館、図書館など、あらゆる文化施設も被災しました。
岩手の沿岸で、泥をかぶり、廃墟のようになってしまった博物館を見たときの切なさは、
自分自身、言葉にできないものがありました。
さらに、地域に残る文化財、古文書、伝統芸能の道具などの多くも、津波で流失しました。
地域の歴史、アイデンティティの「物証」となっていたものが多く失われたともいえるのです。
原発事故の影響で、避難区域となった地域では、
その被害状況の把握さえもままなりません。
そんな中で、自分たちの地域の文化をどう後世に語り継いでいくのか。
そもそも、自分たちの地域の文化的なアイデンティティとはなんだったのか・・・、
改めて問われているように思うのです。

もちろん、文化は決して物質的なものだけではないことも明らかです。
避難所や仮設住宅ではそれぞれの地域の方言が飛び交い、
祭りや伝統芸能の上演を再開する人々や地域も出てきています。
昨夏、被災した方々が、震災以来初めて、伝統芸能の鹿踊りを演じる場におじゃました時は、
家々や街並みは失われても、脈々と人々の中に流れ続ける地域の文化の根のようなものを
感じ、思わずこみあげてくるものがありました。

震災復興に向けては、今後の住まいの確保、高台移転、雇用、産業の復興など
課題は山積し続けていますが、国や自治体の復旧・復興計画の中で、
文化の復旧・復興、継承がどう位置付けられていくのか、非常に気になるところです。
震災以前から、地方自治体は厳しい財政事情から文化予算を削減する傾向にあり、
「まずは雇用」「まずは住まい」という緊急的な課題の中では、
さらに軽視されがちになってしまいます。
ただ、地域の文化の継承も真剣に考えていかないと、10年先、20年先、
地域の核たるものが失われてしまうような気もします。

なんだが、散漫な文章になってしまいましたが、
災害からの文化の復興の意味をどう考えたらいいのか、
東日本大震災に対する思いでもかまいませんので、
皆さんの声をお聞きしたいです。

最後に情報提供ですが、被災地域の文化を守る、民間レベルの動きも多々あり、
それらの活動も非常に注目されるところです。

http://savemlak.jp/ (博物館、美術館の被災・救援情報サイト。
専門家のボランティアを募り、被災文化施設の復旧応援も行っています)
http://www.miyagi-shiryounet.org/ (宮城資料保全ネット。被災文化財や古文書などの
レスキュー活動を行っています)

皆さんの感想・ご意見お待ちしています。
また、被災地出身の一人として、とにかく、震災を風化させず、
皆さんの思いのどこかにとどめ続けてほしい・・・とも思っています。


茶・haru@sanriku




2012年6月28日木曜日

風営法とダンス


反対活動が動き出して話題にはなったので、もうご存知の方もいると思いますが、日本では現在、営業目的でダンスをおこなうお店やクラブが1948年に制定された風営法によって様々な規制がかけられています。規制の一つとして、営業は午前零時であり、日の出までの時間は営業が禁止されています。現状では、近年無許可営業という名目で、クラブやライブハウスの摘発が相次いでいるそうです。

風営法の第一条には、「この法律は、善良の風俗と清浄な風俗環境を保持し、及び少年の健全な育成に障害を及ぼす行為を防止するため、風俗営業及び性風俗関連特殊営業等について、営業時間、営業区域等を制限し、及び年少者をこれらの営業所に立ち入らせること等を規制するとともに、風俗営業の健全化に資するため、その業務の適正化を促進する等の措置を講ずることを目的とする。」とされています。

京都を中心に活動する「Let,s DANCE署名推進委員会」が発起され、坂本龍一や大友良英、作家のいとうせいこうも参加し、「フジロックフェスティバル」や「サマーソニック」の主催者も、反対活動を積極的におこなっている模様です。

【Let,s DANCE署名推進委員会のHP】

上記した第一条をみると、やはり私は、「善良」「清潔」「健全な育成」といった言葉が気にかかります。
この法律によって、純粋に夜というムードの中でダンスを楽しみたいクラブまでもが摘発される状態であるならば、果たして、ダンスによって人の善良さや健全さが損なわれるというのだろうか、と問いかけたくなります。
個々の状況を判断して、時間がかかりながらも、法を定めたり規制したりすることせずに、全てを網羅して禁止してしまうならば、法律の専門家など必要ないのではないでしょうか。
そもそも、法とは何のためにあるのか。
市民のためにあるのではないでしょうか。
警察のためでもなく、行政のためでもなく、規制のための規制でもないと思っています。
青年やおばあちゃんまで身体を動かしてダンスすることが可能であり、生きていく上での楽しみとなってきたはずです。夜という危険な匂いを楽しみながらも、危険なことをするのではなく、ダンスをするために集まることで、様々な交流も生まれてきたと思います。

何のために規制するのか、やはり今一度考えてほしい。
その規制によって、損なわれるものは何なのか、も考えてほしい。

そもそも、どこまでがダンスなのでしょうか。お客さんが身体を曲にのって揺らし始めていたらダンス?どこまで動かしていたらダンスなの?
様々な疑問をこの投稿にも散りばめてしまいましたが、文化や芸術に携わる同世代の方々の意見も、この場をお借りして是非聞いてみたいです。
よろしくお願いします。

[番外編~私の気持ちがホッコリとした、ダンスにまつわる話~]
①先日、夜遅くに電車に乗っていたら、隣に座った仕事帰りのカッチリとスーツを着た30代の男性が、スマートフォンで、ダンスのPVを見ていました。5人くらいの女性グループのPVで、結構激しめのダンス(K-popっぽかったです)がムーディな照明の下で繰り広げられている映像でした。真剣に見ているその人を見て、何だかやはりダンスは、広く人に享受されている気もして、嬉しくなりました。(その男性と映像のギャップにドキドキしながら、私も横からその映像に魅入ってしまって、ギロっと睨まれましたが、、、)

②風営法とその反対活動の記事は、ファイスブックでもしばしばシェアされていて、さほどダンスや音楽にゆかりのなかった人もコメントしたりと反応していたので、クラブという場が、様々な人の多様な関心が集まるクロスした場なのだなあと改めて思いました。

③深夜に駅のホームを歩いていると、ベロンベロンによったサラリーマンが、カラオケ帰りかクラブ帰りなのか、余韻とともに、グニャグニャとした身体で踊ってたりとして、かなり良い動きをしていたりします。そういう場をみると、実に色んな人がダンスしたり、身体を動かして楽しんでいる!としみじみ感じます。

私は今、アートマネージメントや文化政策を専門にした研究室に在籍していますが、アートや表現活動がどのように人々と出会うのか。どのように人はアクセスしているのか、ということを自身への問題提起として、理念の勉強や実践活動をおこなってきました。今後もこの課題を掲げて研究を続けていこうと思っており、大切にしていきたいと思っています。
クラブという場も、実に様々な背景をもつ人たちがダンスにアクセスする重要な場であると感じているため、ダンスとクラブにまつわる風営法について今回投稿させて頂きました。

ついつい熱くなってしまい、長文になり申し訳在りません!
意見を気軽に交換できたら幸いです。

(芸・kalinga)

文化的生活とボランティア

皆さま、初めまして。
東京藝術大学大学院 修士2年の宮下信子です。
初投稿ですので、簡単な自己紹介と授業を受けて感じたことについて書きたいと思います。

私は現在熊倉研究室に所属し、アートボランティアについて研究しています。
アートアクセスあだち「音まち千住の縁」という、音をテーマに展開するまちなかアートプロジェクトの運営に携わる中で、アートに関わるボランティアの人々の実態について非常に興味を持ちました。
当初はボランティアをする人々のモチベーションについて研究していましたが、現在はアートプロジェクトのボランティア活動を通して、参加する人々にどのような変化が表れているか、というところに少しシフトしています。
今年度修士論文を書いて卒業ということもあり、今さまざま悩んでいるところです。


さて、先日27日(水)の授業で、ドイツの文化政策と文化権の話に入りました。
その前提として、小林先生の研究の問題意識についてもお伺いし、非常に興味深く聞いていました。

「人々がどのように文化を享受して豊かになるか、幸せになるか」を考える際に、「文化権」の保障が鍵になるのではないか。
では、その「文化権」とはどうあるべきなのか。

これは、ドイツに限らず、ありとあらゆるレイヤーの文化政策において、真摯に考えなくてはならないことだと感じました。
しかし、一番この権利について考えなければいけないのは、むしろ権利が認められている我々一般市民なのではないかとも感じました。
もちろん、行政より制度として「文化権」が保障され、人間の権利として認められ、人々の認識にも浸透することも考えなくてはならない。しかしその一方で、この保障された権利をどのように主張し、活かすのか、ということは意外と人々にとって「?」の部分なのではないかと思ったのです。
この権利を活用して「文化的生活」を過ごす人がどれくらいいるのか、どういう生活が「文化的生活」なのかということを考えてみると面白いのではないかと感じたのです。


そこで、「文化的生活」を送っている人々の1つのパターンとして、アートボランティアという生き方があるのではないかと考えるにいたりました。
彼らは積極的に現代アートなどのさまざまな文化を享受し、それを生活の一部として認識している。
この状態はまさに、「文化権」の活用を示す現象なのではないでしょうか。
まだ思いつきの段階ですので、論としては非常に浅いですが。。。
これを足掛かりに「文化権」や「文化的生活」について考えてみたいと思いました。
皆さまのご意見もお聞きしたいです。





最後に、他大学の方々との交流の場、非常に楽しみです。
どうぞよろしくお願いいたします。


(芸・nbkm)






2012年6月25日月曜日

芸大のヒョウです

はじめまして!
東京芸大のD1 李 丞孝(イ・スンヒョウ)と申します。これからは(芸・Hyo)で書かせていただきます。
みなさんが長く書いてくださったのですが、私はとりあえず少し書いてからみなさんの文章を読むことにしました。まず、自己紹介を簡単にしますと。
名前で気づいた方もいると思いますが、僕は韓国からの留学生です。今年が日本に来てから4年目ですが、まだ日本について勉強することが山ほどあると毎日痛感しています。
私は修士課程から韓国のダウォン芸術という新しい文化政策及び芸術思潮について研究しています。また、フェスティバル・トーキョーという舞台芸術フェスティバルを含め、いくつかのところで舞台芸術を中心に日韓の仕事をさせていただいております。

さて、3つの学校の学生がブログで交流するという非常に面白そうな企画ですが、
芸大からはまだ登場してないのでしょうか。
みなさんはとても優秀な方だと小林先生から聞いたので、これからも色々と交流させていただいて、教えていただければ嬉しいです。色んな議論があり、有意義なスペースとしてこのブログが使われればと思います。

宜しくお願いします。

(芸・Hyo)


2012年6月24日日曜日

消えた映画館

はじめまして、いきなりですが、みなさんは小・中・高校生時代にどれくらい映画館に映画を見にいきましたか?

私の地元は栃木県南部、足利市という、栃木県の中でも比較的人口が多いところ(おそらく県で3番目)なのですが、2009年、開館してまだ1年2ヶ月しか経っていなかった市内の映画館が閉館。市内に映画館がなくなってしまいました。

そして今年3月には市内から自転車で20分程にあった最も近場にあった群馬県太田市の映画館も閉館。映画館の運営というのは今日の経済状況では大変なのでしょう。

ということで現在最も市内から近い映画館は車で20分くらいの太田イオンの映画館!
な の で す が、
ふと疑問に思ってしまいました。この足利市では市民(特に子どもたち)は映画に触れる機会を持てていないのではないかと。
もちろん、DVDやテレビでも映画は見れますし、映画館にも自転車を35分くらいこいだり、親に車で乗せていってもらってたり、かなり面倒だけど電車とバスを乗り継いでwwという手段はありますが、よし行くぞという思い切りが必要です。

おそらく映画館のない市町村なんて日本にたくさんあるだろうとは思うんです。
ただ、私が疑問に思ったのにはちょっとした理由があります。

それは、市が映画のロケ地提供にすごく積極的であるということです。
都心から日帰り圏内で、気候もよく、ほどよい田舎具合のためか、実際に映画やドラマのロケ地として使われる機会が増えています。
近年では三浦春馬さん主演の『君に届け』(市のHPではロケ地地図なんかも出しています)や、稲垣五郎さん広末涼子さん出演の映画も春にロケをしていました。また現在、市のHPでエキストラを募集している『じんじん』という映画については、主演の大地康雄さんが市長を訪問したそうです。

ミーハーな私としては地元が映像作品の制作に使われることはとても嬉しいことです。
しかし、制作者側にロケ地提供を積極的にしていたり、映画のロケ地として街のPRを頑張っている市長や市のHPを見ると、市内に映画館がないことに矛盾を感じますし、「そんなに映画に関心があるなら、小さくてもいいから市で映画館を運営してほしい!」という気持ちになります。そもそも市営の映画館が存在するかわかりませんが、可能なら本当に市で運営してでも映画館を復活させてほしいんです。
このままだと子どもたちが映画館で映画を見る時のあのドキドキワクワクを経験せずに大人になってしまう。そんなの悲しすぎます。
私の考え過ぎなのでしょうか?
みなさんの住んでいるところの映画館事情はどうですか?
(茶・こんぶ)

2012年6月22日金曜日

アマチュアとプロ

芸術だけでなく、おそらくどの世界にも「プロ」が存在するところに「アマチュア」がいるように思います。
「プロ」と「アマチュア」との境界線は実にすごくあいまいで、「セミプロ」という存在もあったり、簡単に線引きできないのも芸術支援の難しいところだと思います。

今わたしが問題にしたいのは、アマチュアであって、なおかつ、必死で真剣に芸術に対峙し技を磨いている人たちのことです。彼らにチャンスはないのでしょうか。

たぐいまれな才能と運に恵まれていれば、いかなる事情も乗り越えて「プロ」としてアーティストの道を歩めるのかもしれませんし、そういう世界だといえばそれまでです。しかし、もっと門は万人に開かれていてもよいのではないかと思うのです。

とくにいわゆる敷居の高い世界は、門下のつながりが非常に濃い一面があると思います。それゆえ、親しむ人が限られてしまうのではないでしょうか。

団体の―たとえばアマチュアバンド―活動にたいして何らかの援助が出やすいのも納得しますが、
もっと個人レベルで、金銭面もさることながら、たとえば大きな発表会の場や補助金がでるコンクールの支援や海外レッスンの機会などがあればいいのに、と思うのです。

芸術に関して、さまざまな親しみかたがあると思います。
仮にプロを頂点とするピラミッド型のヒエラルキーがあるとするなら、その底辺をあげることこそ、芸術を振興させるのではないでしょうか。知らないことは愛せません。

そして底辺と上部が分離しないための、むしろ下剋上が起きる機会がありえるような(そう簡単には起きないのだから)、何らかの支援の形があっていいように思います。

わたしじしんの日ごろの思いですが、どの芸術にもあてはまるのではないかと思い投稿させていただきました。ご意見あれば頂戴したいです。

(茶・しぶ)

2012年6月21日木曜日

ようやく告知しました

先週は、所用により水曜日の授業を休講にせざるをえなかったので、昨日ようやく「国際文化政策論」と「文化行政制度論」の学生に、今回のブログの告知をしました。これで三大学の学生がバーチャルではありますが、交流できる環境が整ったといえます。授業をしている側とすると、こちらは一人ですが、相手側は大学によって個性の違いがはっきりしていて面白いと思っています(反応とか、顔つきが違うんですよね)。あまり肩肘張らずに、自由に書きこんでいってもらえればいいかと思っています。そうすると自然とこのブログの姿というのも浮かび上がってくるものになると思います。

なお、私は今日、夜から京都に移動します。
国際文化経済学会の大会が京都の同志社大学で今日から開催されているからです。日本でも文化と経済、政策、さらにはアートマネジメント分野の研究を牽引してきたのは、文化経済学会<日本>という学会ですが、それの国際学会バージョンです。様々なプログラムが予定されていますので、関心のある人はプログラムの内容だけでも見てみてください。社会科学系の研究者が多いですが、現場の人たちも多い、いわゆる学会というところとは違う特色も持っています。

http://www.jace.gr.jp/20120613_doc.pdf

(M.K)

2012年6月17日日曜日

批評するということ。批評家の役割。


みなさんは批評ということや批評家の役割について考えたことはありますか?
どういったときに批評を読みますか?

批評は、全くわからない分野に関しては「興味があるけど何を観に行こう、何がいいのだろう」という疑問に対してある程度指針を与えてくれますし、観に行ってわからなかったことや見方がわからなかったものについては「こういう見方ができるのか」と視野を広げてくれる役割もあると思います。

と、ちょっとポジティブなことを言いましたが、わたしはつい最近、ある批評家に憤りを感じて、それがきっかけで考えたことや気づいたことについてお話ししたいと思います。

わたしは舞踊学専攻なのも関係して、主にバレエが中心ですが、公演をよく観に行っています。もちろんバレエが好きで観に行っているというのもありますが、日本や世界でバレエがどのような傾向にあるのか、このカンパニー、この国はこういう色がある、といったようなことを知るために舞台を観にでかけています。

日本のバレエ団の公演もツアーで来日する海外バレエ団も観に行くのですが、それだけではカバーしきれないので、海外の批評文を読んだり、バレエやダンスの批評家のツイッターをフォローしたりしています。

さて、わたしはオーストラリアとNYに留学していたことがあり、わたしにとってはどちらもホームです。そんなホームの1つのオーストラリアのAustralian Balletと先住民アボリジニの伝統の流れをくんだBangarra Dance Theatreが協同で、わたしのもうひとつのホームであるNYのツアーを組み、リンカーン・センターで踊るというではありませんか!(ちなみにちょうど今やっています) Bangarraはいつも独特の雰囲気で毎回魅了されていましたし、「ものすごく観に行きたいのに行けないー!」と悶々としていました。

初日が終わって、その日の批評がNew York Timesに出たので、どんなパフォーマンスだったんだろうとわくわくしながら読んだのですが、ダンサーやパフォーマンスについてはほとんど触れられておらず、どのような作品が上演されたかということがメインに書かれていたので、わたしはとってもがっかりしてしまいました。

批評家がそのパフォーマンスで気に入ることが何もなかった、もしくは書くに値しないと思ったから、あえて作品についてだけ書いたという可能性ももちろんあります(だったらそう書けばいいじゃないと思うけど、そうしないところがかなりスノビッシュ)。また、その作品はMcGregorという人気の現代振付家によってAustralian Balletに振付けられたものですから、他ではなかなか見ることのできないものであり、それに重点がおかれたということも考えられます。それでも、普段NYでは見ることができないカンパニーの特色に触れずに、作品論に走るというのはどうなんだろう、と思ってしまいました。

これを書いたのは、The TimesやNew York Timesのような超大手の新聞社でバレエの批評を書いてきたとても有名な批評家です。また読者も教養があるような人が多いでしょうし、Arts面でバレエ公演の批評を読むような人は詳しい人も少なくないと思います。

それでも一般的に考えて、作品論よりも、どういう雰囲気だった、どのダンサーが光っていた、どこがどうよかった・悪かったというような情報をわたしたちは批評に求めているのじゃないのでしょうか。


批評家はそこの街や地域で起きている芸術がどういうものであるかを紹介し、また評価していくことが仕事だとわたしは考えています。そうやって芸術家はフィードバックを得て成長できる面もあるわけですし。しかし、今回のような普段みることができないようなパフォーマンスの場合には、もっと紹介に重きをおいてもいいのではないか、と思いました。

日本の批評文で批判的な内容をみることはなかなかないので、こういったことを感じることもないかもしれません。もちろん批判的なことも遠慮せずに書かれるべきだし、いいと思ったらそれを伝えるべきだと思います。ただ、専門的すぎる視点でなく、いろいろな分野の人が読んでも理解できるように書かれるべきだと考えています。というのも、批評家はアーティスト側とそれを鑑賞する側をつなげる役割を果たす大きな要素のひとつで、芸術振興にもつながってくるものです。

きっと一学生であるわたしがわからない、大きくて複雑な世界がそこにもあるのだろうとは思いますが、納得いきませんでした。


同じようなことを感じたことがある方、批評はこうあるべきだと思う、わたしの意識があまいなどなど、ご意見交換できれば面白いかなと思ってこのことについて書いてみました。



わたしが期待していたものと違った点にで過剰に反応してる部分も少なからずあるとは思いますが、問題の批評文のリンクを載せておきます。
http://www.nytimes.com/2012/06/14/arts/dance/australian-ballet-at-the-koch-theater.html


(茶・chichi)

劇場芸術は敷居が高い?

初めて劇場へ足を運ぶというのは敷居が高く感じるものなのでしょうか?
それはイメージの問題なのか、料金設定の問題なのか…

先日の授業の際、近年メトロポリタンやフォルクスオーパーなど海外の主要な劇場の引っ越し公演が主に東京だというお話がありました。
それは関西で需要が減っているからなのでしょうか?

昨年のメトロポリタンの引っ越し公演の初日に行った際に(震災後であったという理由もありますが…)想像以上の空席に驚かされました。

一方で今年の夏に行われる兵庫県立芸術センターで行われる佐渡裕さんプロデュース「トスカ」ha
公演を一か月以上前に完売しているそうです。
その公演は外人チームと日本人チームのダブルキャストとのことです。
近年では日本人が主役を演じるオペラで完売というのは難しいなか、何故兵庫では人気を維持できているのでしょうか?

確かに料金設定が少し低めなことも理由の一つかもしれませんが、私は町(兵庫県や近隣に住んでいる人)がこの企画や劇場に愛着を持っているからではないかと思いました。

毎年夏が近づいてくると音楽祭が始まるぞと言わんばかりにポスターが貼られ、電車や町中に広告がつるされるそうです。

例がスポーツになってしまうのですが…
皆さんは地元に帰るとサッカーチームの広告を目にしたり、駅で月刊や週刊でチームの新聞貰ったり、ファン感謝祭に出会ったことはありませんか?
地域密着や欧州のサッカーリーグをモデルとしたJリーグにおいてよく行われる地域戦略です。
こういった地域戦略に日ごろから目にし、季節(周期)的なイベントが重なっていくと、「自分の町にはこのチームだ」「J1やJ2で成績を残した」と良く知りもしないのに嬉しくなったりすることがあります。
不思議なもので自分も地元のチームに愛着がわいたりします。

兵庫の劇場が意図的に地域に対して何かアクションを起こしているのか、また地域の人がどう思っているのか…確かな情報はありません。
しかし事実として佐渡裕プロデュースオペラは毎年夏に続いており、人気も維持しています。
きっと東京の劇場や芸術祭が学ぶことがたくさんあるのではないかと思いました。

「誰でもわかる入門〇〇」や料金設定を下げた企画などはぷらっと立ちよれるかもしれません。
しかし愛着をもってくれなければリピーターにはなり得ないし、料金を下げたところで良いコンテンツでなければ続かない…という疑問を日ごろから抱いていました。

単純に料金を下げ招待券を出して敷居を下げるのではなく、地域から愛される劇場(ホールとしての機能だけでなく、芸術監督含めての劇場)が東京だけでなく、日本中にできることを願うばかりです。

しかし何をきっかけに愛着を抱いてくれるのか…私には大いなる謎です。

(茶・seiko)



2012年6月15日金曜日

ドラマLの世界

皆さんはLの世界という海外ドラマをご存知ですか?

アメリカで2004年1月から放映された、シリーズ全6部作の人気ドラマです。
日本でも一時期TVCMが放映されていたので、存在は知っているという方もいらっしゃるかと思います。

Lの世界というドラマはロサンゼルスに住むレズビアン達の人生を描いたものです。人工授精による妊娠で子供を授かろうと努力するカップルや、フィアンセのいる女の子に恋をして彼から彼女を略奪してしまうカフェの女主人や、ラジオで自分たちの恋愛模様を世の中に放送するジャーナリストや、彼女たちの人生は実に多種多様なものです。

何故私がこのドラマを皆さんに紹介したいかというと、それはこのドラマの主要な登場人物に美術館のマネジメントを職業としているキャラがいるからです。
彼女の名前はベット・ポーター。芸術を愛し、芸術を愛でる場所を作る事に情熱をそそぐ彼女は、あるとき『陵辱』というテーマで展覧会を開きます。その芸術は人が持つ残虐性や嗜虐性を描いたもので、目を背けたくなるような残酷な絵画もありました。
そして、その中に敬虔なカトリック信者から見れれば「イエス・キリストを侮辱する」ような内容のビデオ作品があったのです。そのビデオに激怒したカトリック信者は展示会を中止せよ、とデモ活動を行い、ベットの展示会を強く非難しました。カトリック信者による過激とも言えるデモ活動によって絵画は破壊されそうになり、そのデモに対抗したベット達は警官に捉えられてしまいます。

どの宗教を信じ、どの神に祈るか、人々にはそれを選ぶ自由があります。
また、芸術家達は自分の内にある世界を好きに表現する自由を持ちます。

芸術家達の自由な活動によって、自分達の信仰が汚されたと感じてしまう人がいる。
そうして、それらの芸術を排除しようとする動きが起こりうるという事。
また、その排除を正しい行いだと信じているがゆえに暴走が起こる事。
その暴走の中で壊されてしまう芸術がある事。

文化アーツマネジメント、という授業にどれだけふさわしいかわかりませんが、ナチスの退廃芸術展を取材した新聞記者の嘆きを聞いたとき、このドラマでベットが芸術を守るために必死に戦う姿や、ベットのパーソナリティを全面から否定するような行動にまで出るカトリックの活動家達を思い出しました。

ベットは他にも美しい芸術作品を見て泣き崩れる程に感動したり、展示会の権利を得るためにアポイントメントなしで大物のホテルを訪ねたりと活発にアートのための活動を行います。
自分の子供が芸術のない場所で育つなんて考えられない、とベットは語りました。
素敵な言葉だと思いませんか?

お時間がありましたら是非、このドラマをご覧になってみてください。

(茶・宇治)

背景の写真について:バイエルン州立歌劇場

さあ、始めることにしましょう。

ここで、一つブログの背景になっている写真について説明をしておきます。
ここは、ドイツ、ミュンヘンにあるバイエルン州立歌劇場です。私が世界の中でももっとも好きな劇場の一つです。なぜ好きかと言えば、もちろん演目、オーケストラ、合唱団、内装、中で食べられる熱いベリーがけのアイスもさることながら、この劇場を守ってきたミュンヘン市民の心意気が好きです。

この劇場は、歴史的に何度か火事で焼け落ちてしまったことがあるそうなのです。戦前のことになりますが、劇場再建のために、ビールにかけられている税金を値上げして、その再建費用を捻出したという歴史があります。ドイツといえばビール、ビールといえばドイツというほどですからあっという間にその費用は捻出されたとのことです。私は、この話が大好きです。

この写真の劇場は戦後復興されたものですが、このビール税のことを思い出すたびに、文化や芸術は、思いのある市民こそが守るのだということで胸が熱くなります。守りたい、好きだ、大事にしたいという思いがなければ、政策や施策もない、と思いますし、政策や行政がやれることは限られると思っています。

今、日本でも消費税を上げようということで国会で様々なやりとりがなされていますが、何のためにあげるのかということに納得さえいけば、国民の多くは賛成するとおもうのです。尖閣諸島を買うという石原都知事の突飛とも思える目論みにも、いまや数億の寄付が集まっているということをニュースで知りました。何のためにということがはっきりしないから、増税には躊躇してしまうのですよね。

(M.K)