2012年6月15日金曜日

ドラマLの世界

皆さんはLの世界という海外ドラマをご存知ですか?

アメリカで2004年1月から放映された、シリーズ全6部作の人気ドラマです。
日本でも一時期TVCMが放映されていたので、存在は知っているという方もいらっしゃるかと思います。

Lの世界というドラマはロサンゼルスに住むレズビアン達の人生を描いたものです。人工授精による妊娠で子供を授かろうと努力するカップルや、フィアンセのいる女の子に恋をして彼から彼女を略奪してしまうカフェの女主人や、ラジオで自分たちの恋愛模様を世の中に放送するジャーナリストや、彼女たちの人生は実に多種多様なものです。

何故私がこのドラマを皆さんに紹介したいかというと、それはこのドラマの主要な登場人物に美術館のマネジメントを職業としているキャラがいるからです。
彼女の名前はベット・ポーター。芸術を愛し、芸術を愛でる場所を作る事に情熱をそそぐ彼女は、あるとき『陵辱』というテーマで展覧会を開きます。その芸術は人が持つ残虐性や嗜虐性を描いたもので、目を背けたくなるような残酷な絵画もありました。
そして、その中に敬虔なカトリック信者から見れれば「イエス・キリストを侮辱する」ような内容のビデオ作品があったのです。そのビデオに激怒したカトリック信者は展示会を中止せよ、とデモ活動を行い、ベットの展示会を強く非難しました。カトリック信者による過激とも言えるデモ活動によって絵画は破壊されそうになり、そのデモに対抗したベット達は警官に捉えられてしまいます。

どの宗教を信じ、どの神に祈るか、人々にはそれを選ぶ自由があります。
また、芸術家達は自分の内にある世界を好きに表現する自由を持ちます。

芸術家達の自由な活動によって、自分達の信仰が汚されたと感じてしまう人がいる。
そうして、それらの芸術を排除しようとする動きが起こりうるという事。
また、その排除を正しい行いだと信じているがゆえに暴走が起こる事。
その暴走の中で壊されてしまう芸術がある事。

文化アーツマネジメント、という授業にどれだけふさわしいかわかりませんが、ナチスの退廃芸術展を取材した新聞記者の嘆きを聞いたとき、このドラマでベットが芸術を守るために必死に戦う姿や、ベットのパーソナリティを全面から否定するような行動にまで出るカトリックの活動家達を思い出しました。

ベットは他にも美しい芸術作品を見て泣き崩れる程に感動したり、展示会の権利を得るためにアポイントメントなしで大物のホテルを訪ねたりと活発にアートのための活動を行います。
自分の子供が芸術のない場所で育つなんて考えられない、とベットは語りました。
素敵な言葉だと思いませんか?

お時間がありましたら是非、このドラマをご覧になってみてください。

(茶・宇治)

7 件のコメント:

  1. 宇治さん、ちなみにどうすればこのドラマを見ることができるのですか?
    とても興味深い投稿です。

    ある自治体で、移民関係のイベントをしようとしたら、日本では正式に移民を認めていないので、このようなイベントは公費を出して行うものとしては適切ではないということが言われたことがありました。社会的な問題を投げかけるほどに、まだまだ不自由な部分もあります。
    (M.K)

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  2. コメントありがとうございます。
    現在、全シーズンがDVDにて販売されており、またTSUTAYA等のレンタルショップでレンタル可能です。
    基本的には彼女たちの恋愛がメインになってしまいますが、シーズン1のvol.5あたりがベットとベットの務める美術館の展示企画を巡るお話になっています。

    日本では移民を認めていないのですね、恥ずかしながら初めて知りました。
    公費を使うとなるとたくさんの制約がかかってしまいますよね。
    もう少し、自由な活動を認めてくれるような社会であれば、ある種の縛りを受けている人や力を持たない人たちが声をあげる機会を持てるのかなと思います。

    日本人が政治に無関心だと言われるのは、声をあげる機会が持てない事にも原因があるんでしょうかね。
    現状の不自由を訴えたところで何もかわらない、というふうに思っているところが大きいのかと思いましたが、訴える場を持たない、というのも事実なのかな…

    (茶・宇治)

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  3. 宇治さん、面白いドラマを紹介していただいてありがとうございます。ぜひ見てみたいです。

    移民問題は日本でもこれからかなり大きい問題になりそうですが、その論議さえ不自由であるということは、日本に住んでいる外国人として少し悲しい気持ちになりますね。

    (芸・Hyo)

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  4. 宇治さん

    こんにちは。
    投稿を読ませて頂き、ドラマの世界だけでなく、同様の事柄が現実にも起こったことを思い出しました。

    2011年にフランスのアヴィニョンにて開催された展覧会の中に、アーティストのアンドレス・セラノによる《Piss Christ》という絵画作品が展示されました。それに対して、カトリック教徒の人たちが展示の撤回を求めるデモを数日に渡っておこしました。最終的に、美術館の中でおこなわれたデモの最中に、デモの参加者によって金槌や鶴嘴で作品に打撃が加えられました。
    私はこの事件を知り、思想を孕む表現への破壊を通して、芸術の伝播力や威力におそれる人々がいることも再認識するとともに、一般の市民が暴力をおこしてしまうことをも考えるに至りました。

    【デモの様子の写真が載った記事】
    http://provence-alpes.france3.fr/info/avignon--manifestation-contre-piss-christ-68416755.html

    【アーティスト本人と破壊された写真】
    http://tempsreel.nouvelobs.com/culture/20110417.OBS1449/l-oeuvre-piss-christ-detruite-dans-un-musee-d-avignon.html

    アヴィニョンという街の背景として、1377年にはローマ教皇庁が移動してきたり、1426年には大司教座が置かれたりとし、「キリスト教界の首都」とも呼ばれるほど、敬虔なキリスト教徒が住んでいる街です。

    反発にあった絵画の展示においては、既にアメリカやオーストラリアで禁止がでており、このアヴィニョンの街でも反対運動が起きたりすることは、美術館側やアーティストにも想定されていたことだと考えられます。展示をきっかけに議論が起こることも一表現であったと捉えることもできます。また、芸術のあり方の再考や、宗教に関する事柄を議論の俎上に載せることを通して、芸術や宗教に一示唆を与えることに成功していたといえるでしょう。

    私がここで一番問題だと思うのは、展示に対してデモが起こり反対活動が繰り広げられたことではなく、破壊という暴力が加えられたことです。
    「表現の自由」に対となる「芸術であったら何をしてもいいのか」という意見。
    この双方は、議論していくことになるだろうし、一人一人が意見を戦わせる土壌も確保されるべきだと思っています。その一手段が、展示をすることであり、デモをすることでもあります。ただ、破壊や暴力を起こしてしまうことは、事柄の抹殺へもつながっていくのでしょうか。そこでは、思想や個人を浮かび上がらせることもなく、他者のみならず自身の尊重をもすることができなくなるのではと考えています。

    カトリック教徒が一思想を唱えると同様に、他の人も一思想を提示し、しかしそれを破壊しようとする行為は、カトリック教徒たち自身の活動をも否定することにもつながるのではないだろうかと思いました。

    (芸・kalinga)

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  5. > Hyo さん
    コメントありがとうございます。

    言論の自由だとか偉そうな事言っていますが、むしろ無関心なだけなんじゃないかって気がしてきてしまいますよね。
    移民関係のイベントを先生が行おうとした時に、日本では正式に移民が認められていないから公費は出せないという返答が帰ってきた事を考えてみても、そのイベントの意義やイベントの参加者達の背景を考えることすらせずにただ「法が認めていない」っていう書類・形式上のことだけで却下しているんじゃないかなぁなんて疑っちゃいます。

    移民が認められていない事と、移民問題を考える機会を提供する事は全く別というか…むー、難しいですね。
    政治や社会情勢にとんと疎いものですが、先生の授業を聞いたり、こうしてみなさんの投稿・コメントを読んでいると色んな事に疑問や違和感を覚えます。

    (茶・宇治)

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  6. >kalingaさん
    コメントありがとうございます。

    似たような事件があったのですね。記事、写真の転載ありがとうございます。
    じっくり読んでみたいと思います。

    「表現の自由」対「芸術なら何してもよいのか」
    深い議題ですね…。おっしゃるとおり、問題なのはデモではなく破壊活動が行われた事ですよね。
    宗教を信じる方々にとって、神はその人の心の侵されるべきでない大切な聖域に存在していて、神を侮辱されたように感じたらそれはその人個人の痛みになるんでしょう。
    その痛みに対して抗議する事自体は彼らの権利ですから問題ないんでしょうが…。

    < カトリック教徒が一思想を唱えると同様に、他の人も一思想を提示し、しかしそれを破壊しようとする行為は、カトリック教徒たち自身の活動をも否定することにもつながるのではないだろうかと思いました。
    ですね。彼らの神様だって、きっと破壊行為なんて望んでいないのに。

    暴力は、本当に恥ずべき行為だと思います。
    それによって犠牲になったアート達は、可哀想ですね。

    (茶・宇治)

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  7. 宇治さん

     こんにちは。Lの世界は一時期頻繁にメディアに取り上げられていていました。内容をお聞きする限り、レズビアンの女性たちを取り上げていることなどからも、二項対立的な既存の価値観を打ち破るような力強い作品のようで、是非見たいです。私は表現の自由について、制限が無いのかといえば嘘になるような気がします。特定の対象を“意識的に”“故意に”傷つける要素があるか否かを表現者自身が問う必要が暗黙の内に含まれているのではないでしょうか。芸術家は作品を制作する際に、何らかの縛りから自身を解放しようという欲求のもとに動いたり、或るいはそのような考えを故意に作品として表明しようとする時があるかと思います。それはある種、カタルシスのようなものであると思います。鑑賞者はそのような芸術家の思いの“表れ”に直面し、作品を通し作者と対話をするのですが、時にそのような“表現”が作者の意図しない形で解釈されてしまう時もあります。その際に作者が生きていれば作品の意図を表明できるでしょうが、芸術作品は作者の亡き後にも残りますのでその時代、その時代の価値観により鑑賞者によっては傷つけられたと感じることもあるかもしれません。作者不在の作品に関しては、破壊するなどは、不公平でありもってのほかであると思います。しかし、作者が生きていて弁明の余地があり、とりわけ宗教の問題が多いかと思いますが、特定の宗教に対して故意に誹謗中傷するような作品或いはパフォーマンス等をして、「これはアートであり、表現の自由がある。」とだけ説明した場合はそもそも芸術とは言えないのではないかと思います。芸術に明確な定義がない以上、どこからどこまでを表現の自由として受け入れるのかは非常に難しい問題だと思います。(ocha A.O)

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