2012年12月20日木曜日
開発援助と文化
皆さまこんにちは。
早稲田大学政治学研究科の aki と申します。
小林真理先生の「文化政策」を受講しています。
2年前にタンザニアの中学校でボランティアをした経験から、
「子どもの名前」と「宗教を伴った開発援助」について考えてみたいと思います。
まず皆さんタンザニアについてご存知でしょうか。
タンザニアは東アフリカに位置する国家であり、日本ではキリマンジャロやマサイ族が比較的有名です。
他部族からなる国家ですが目立った衝突も無く、独立から50年間平和に成長しています。
そんなタンザニアへボランティアへ行って1番驚いたのが「子どもの名前」でした。
タンザニアには生徒の名簿のようなものはなく、生徒の名前は1人1人聞いてメモしなければならないのですが
公用語であるスワヒリ語や部族の言語に由来する名前は発音の難しいものが多いです。
60人分(1クラス)の名前を覚えるとなると大変だと覚悟していたのですが、
実際に尋ねてみると「ビビアン」や「クリス」など耳に親しんだ英語の名前も多く、
イスラム教、伝統的宗教に由来した名前と同じくらいの割合でした。
英語の名前が多いことは、イギリスの旧植民地であるためでもあるのですが、今回は宗教の影響について考えてみたいと思います。
まず、かつてタンザニアでは各部族が土着の、伝統的宗教を信仰していました。
現在はキリスト教・イスラム教がその規模を拡大しておりますが、
このようなキリスト教やイスラム教の割合を高めた要因の1つとして考えられるのが、
植民地支配期の布教活動や開発援助に伴った布教活動です。
と言いますのも、布教活動は教育開発を伴うケースが多く、植民地支配期の教育機会の拡大に貢献したと言われているからです。
独立期に教育を受ける人々がキリスト教やイスラム教の洗礼を受けていったこと、
現在も私立の学校の運営が、宗教NGOによる開発援助により成り立っていることから、
タンザニアには宗教的な学校が多く、人々の間に宗教が広まりやすい土壌があることが分かります。
(もちろん植民地時代のイギリスの政策も多いに影響しているでしょうが...)
かつては大半をしめた伝統的宗教の信仰者が減少傾向にあり、現在はキリスト教・イスラム教・伝統的宗教は同じくらいの割合で分布しています。
このような新しい宗教の拡大によって、キリスト教やイスラム教を信仰する夫婦が増え、
生まれた子どもに宗教に由来する名前をつけたことから、伝統的な名前の減少に繋がったようです。
余談ですが、近年は宗教に由来しない個性的な名前も増えており 'Godlisten', 'Godess', 'Happiness', 'Lovely' といった名前の子どももいました。
日本でも個性的な名前が「キラキラネーム」などと言われておりますが*、
その現象は先進国のみならず、タンザニアのような最貧国と呼ばれる国でも顕著なようです。
*「新生児の名前「Apple」「Siri」が急増 米調査(12/3)」 http://www.cnn.co.jp/fringe/35025164.html (2012/12/21アクセス)
先進国の「子どもの名前」が取り上げられているニュース記事。
(早・aki)
2012年12月13日木曜日
金曜2限「文化政策」
皆様こんにちは。
早稲田大学大学院政治学科のK.Iと申します。
小林真理先生の「文化政策」の授業を受講しています。
「国民の教化、アイデンティティの形成」としてのナチス政権下における「文化政策」について書かせていただきます。
まず、私自身は古代ギリシャの政治思想、特にプラトンとアリストテレスのそれに関して研究をしているのですが、プラトン『ポリテイア(国家)』で展開される教育論が、ナチス政権下においてその文化政策の理論的根拠として援用されたことはよく知られていると思います。例えば、プラトンとヒトラーは相似形のような関係にあると捉えたフランツ・ストロイシュ、1933年の党大会(「勝利の党大会」)での演説で民族間の「反平等主義者」プラトン像を描き出したアルフレート・ローゼンベルグなど、ナチ関係者を含め多くの人物がプラトンを引用してナチス政権の正統性を主張しました。
ここで彼らの主張とプラトンの原典を比較して、彼らのプラトンがいかに歪んだものかを示すことはしません(興味のある方は、佐々木毅『プラトンの呪縛』講談社、1998年をご参照下さい)。
ナチスによる文化政策に限らず、「国民の教化、アイデンティティの形成」を目的とする文化政策は、その本質上「我々」と「他者」を区別するものであるため、「我々」から除外される人々に対する排他性を形成するという側面もあります(このことはスリランカにおけるシンハラ政策からも窺い知ることができるでしょう)。つまり、文化政策は寛容であると同時に独善的であり、文明的であると同時に野蛮的でもある、そのような一面を持ち合わせている。
私個人の興味関心の話で申し訳ないですが、歴史上のこれらの危機の実相との関係でプラトンのもつ現代的な意義を、改めて考える機会となりました。
(早・K.I)
早稲田大学大学院政治学科のK.Iと申します。
小林真理先生の「文化政策」の授業を受講しています。
「国民の教化、アイデンティティの形成」としてのナチス政権下における「文化政策」について書かせていただきます。
まず、私自身は古代ギリシャの政治思想、特にプラトンとアリストテレスのそれに関して研究をしているのですが、プラトン『ポリテイア(国家)』で展開される教育論が、ナチス政権下においてその文化政策の理論的根拠として援用されたことはよく知られていると思います。例えば、プラトンとヒトラーは相似形のような関係にあると捉えたフランツ・ストロイシュ、1933年の党大会(「勝利の党大会」)での演説で民族間の「反平等主義者」プラトン像を描き出したアルフレート・ローゼンベルグなど、ナチ関係者を含め多くの人物がプラトンを引用してナチス政権の正統性を主張しました。
ここで彼らの主張とプラトンの原典を比較して、彼らのプラトンがいかに歪んだものかを示すことはしません(興味のある方は、佐々木毅『プラトンの呪縛』講談社、1998年をご参照下さい)。
ナチスによる文化政策に限らず、「国民の教化、アイデンティティの形成」を目的とする文化政策は、その本質上「我々」と「他者」を区別するものであるため、「我々」から除外される人々に対する排他性を形成するという側面もあります(このことはスリランカにおけるシンハラ政策からも窺い知ることができるでしょう)。つまり、文化政策は寛容であると同時に独善的であり、文明的であると同時に野蛮的でもある、そのような一面を持ち合わせている。
私個人の興味関心の話で申し訳ないですが、歴史上のこれらの危機の実相との関係でプラトンのもつ現代的な意義を、改めて考える機会となりました。
(早・K.I)
2012年11月30日金曜日
不健康な文化と健康な社会
初めて投稿させて頂きます。Xenakis48です。
Xenakisは、ギリシャ出身で主にフランスで活躍した建築家、作曲家のヤニス・クセナキスIannis Xenakisにちなみ、48は、彼の佳曲ST48と某国民的アイドルにかけています。
どういうことを書けばいいのか悩ましいところですが、今回は、前の記事で宇佐美さんが書いてらっしゃる「表現規制」のお話と近しいテーマになりますが、タイトルにもある通り「文化と健康」についてあまり深入りしないように(笑)、簡単に考えてみたいと思います。
2007年、ドイツ北部シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州都キールに置かれた「治療・健康調査センター」のReiner HanewinkelとGudrun Wiborgが、テレビでの喫煙シーンが喫煙率に与える影響を考察した論文„Verbreitung des Rauchens im deutschen Fernsehen“ を発表しました*。彼らによると、調査対象となった2005年当時、ZDFをはじめとしたドイツの主要なテレビ局が放映する番組全体のおよそ45%が1回以上の喫煙シーンを含んでいたそうです。続けて彼らは、喫煙シーンを多く含む映画を見た子どもの喫煙のリスクが高まることを指摘した研究を引き合いに出し、テレビでの喫煙描写に見直しを迫ります**。
日本でも同様の問題については長く議論が行われており、1998年にJTはテレビでの広告を終了しました。しかし日本禁煙学会の調査によれば、現在でもテレビ番組では多くの喫煙シーンが喫煙という行為を否定しない形で登場しており、これが喫煙を正当化させ喫煙開始の誘引になるという影響を与えている、とのことです。また、アメリカでは2007年にディズニーグループを初めとする映画会社が喫煙シーンをすべての映画から排除することを決定しました。
さて、これら規制の動きはどれも「喫煙行為が不健康であること」を根拠にしています。確かに「子ども」を引き合いに出されてしまうとなかなか反論しづらいところがありますが、それでは「不健康な行為」に至らせてしまう可能性のある表現はおよそ規制されるべきなのでしょうか。たとえば、殺人を扱った刑事もののドラマや暴力的な不良が主人公のドラマも、それが「不健康な行為」を誘発するのであれば規制されるのが正当なのでしょうか。確かに、ドイツでのナチスに関する法律のように「それが否定的描写であれば良い」という観点から規制されればそれらの表現がメディアから完全に駆逐されることはないでしょう。ですが、すべての犯罪者が法の裁きを受け更生し、すべての不良が優れた教師の指導の下に社会化されていく物語に満ちた世界、すなわちすべてがハッピーエンドの世界(タバコを吸っている「悪者」は禁煙して「真人間」になるか肺がんでとっとと死ぬ世界)、僕にはなんだか不気味に思えます。
これに対して、禁煙や分煙の推進派を非難する人々は、しばしば「喫煙行為が伝統文化である」と言ってその「敵」を攻撃します。ですが、少なくとも日本に限っていえば喫煙行為が大衆に広がったのはせいぜい100年かそこいらですし、それとて喫煙行為を称揚するような企業による広告や政府による軍人への配給といった「上からの意図」があったことは否めないでしょう。すなわちその(喫煙称揚派が言うところの)「伝統文化」をいまや規制する側に回ろうとしているのがそもそもその「伝統文化」を創出した側であるかもしれないのです。
とはいえこの「文化である」という反論はなかなかインパクトがあるようで、ドイツを初めとしたヨーロッパでは、この論理による反論をしばしば耳にしました。日本の喫煙であればケチも比較的つけやすいのですが(笑)、それが長い歴史をもっていたり、とりわけ宗教などと結びついているとなかなか難しい事態に陥ってしまいます。この難しさは、何も喫煙だけに限りません。
Josh Adamsの研究によれば、アメリカのメディアにTatoo(入れ墨),Piercing(ピアス),Body Modification(身体改造)といった単語が取り上げられる場合、80%以上の確立でネガティヴな表現が続くようです。それらは大抵「社会問題、病気、貧困、犯罪、暴力」といったものだそうです。ですが、冒頭の単語の前に「~族の」や「~教の」といった形容詞がついた場合、ネガティヴとポジティヴの比率が逆転、すなわち80%以上の確立で「興味深い、独特、歴史」といった表現が続きます。換言すれば、入れ墨やピアスはアメリカのメディアにおいては否定的なものですが、それが「文化」とつながる場合には肯定的なものへと転じるのです。
ですが、それらの「文化」は決して「健康的」ではありません。たとえば、アメリカで有名な俳優兼プロレスラーのザ・ロックことドゥエイン・ジョンソンの祖父ピーター・メイビアは、往年の名レスラーですが、自らの出身であるサモア族伝統の入れ墨を入れたことが原因で悪性の血液腫瘍を発症し早世します***。
このような危険を伴った「不健康な行為」も「文化」であれば、なかなか批判されづらい傾向にあるようです。もちろんアフリカ諸国の女児への性器割礼やアボリジニの男児への尿道割礼などには批判的な目も向けられていますが、一方でそれらへの介入が「文化を破壊してしまう」という声も少なくありません。
さて、だいぶ話が錯綜してまいりましたが(笑)、マーラーよろしく「喜びに満ちて緑の森を緩歩」しましたので、夜の帳が下りる前に森を抜けましょう。
僕のギモンは以下の2つです。
1.健康を理由にした規制はどの程度まで正当化できるのだろうか。
2.文化と健康の絡み合いに如何に関わっていけばいいのだろうか。
みなさまからご意見賜ることが出来れば幸いです。
*この論文を読んだとき最初に頭をよぎったのは、ドイツではある時間以降になると、有料ではないごく普通のチャンネルでポルノを放送する、ということでした。日本では到底考えられないことだったのでドイツ人の友人に尋ねたところ「この時間になれば子どもは寝ているから問題ないさ。それにもし見たとしても、あんまりハードなのはやってないから大丈夫だよ!」と言って笑っていました。一方でドイツ版の『クレヨンしんちゃん』ではしんちゃんの「ゾウさん」にモザイクがかけられていました(僕には逆に性的に思われたのですが・・・)。
もし日本の非有料放送がポルノを放映したらそれこそ大問題になるでしょう。ですが、しんちゃんの「ゾウさん」は確かに「下品である」という非難こそあれ、モザイクをかけるべきだ、と言った議論は聞いたことがありません。
**ドイツは、ナチスの反タバコ政策への反省があるのか、ヨーロッパのその他の国々と比べ喫煙に関しては比較的寛容な印象があります。街のいたるところに灰皿がありますし、レストランも分煙化された、とはいえオープン席ではごく普通にタバコを吸うことが出来ます。また、価格自体も他のヨーロッパ諸国と比べると割合安いです。
***孫のドゥエイン・ジョンソンもサモア式の入れ墨を入れていますが、近年は入れ墨も技術が上がってきており、そこまでの危険性は伴わなくなってきました。しかし、進歩する社会の反対物として描かれがちな入れ墨やピアスといったものが、その進歩する技術の恩恵を受けて以前より「安全」かつ「望んだ通り」に行われるのって、なんだか非常に弁証法的で面白いですね。
日本でも入れ墨や身体改造の愛好家たちが「自分たちは反社会的な存在ではない」ことをアピールして理解を(差別や奇異の目で見ることをやめるように)求めていますが、これって、「反社会的存在」としての主体化するために入れ墨をいれたり指を詰めたりしたアウトローの人たちにとってはエライ迷惑でしょうね。まあアウトローがわれわれにとっては迷惑なわけですが。
(Xenakis48)
Xenakisは、ギリシャ出身で主にフランスで活躍した建築家、作曲家のヤニス・クセナキスIannis Xenakisにちなみ、48は、彼の佳曲ST48と某国民的アイドルにかけています。
どういうことを書けばいいのか悩ましいところですが、今回は、前の記事で宇佐美さんが書いてらっしゃる「表現規制」のお話と近しいテーマになりますが、タイトルにもある通り「文化と健康」についてあまり深入りしないように(笑)、簡単に考えてみたいと思います。
2007年、ドイツ北部シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州都キールに置かれた「治療・健康調査センター」のReiner HanewinkelとGudrun Wiborgが、テレビでの喫煙シーンが喫煙率に与える影響を考察した論文„Verbreitung des Rauchens im deutschen Fernsehen“ を発表しました*。彼らによると、調査対象となった2005年当時、ZDFをはじめとしたドイツの主要なテレビ局が放映する番組全体のおよそ45%が1回以上の喫煙シーンを含んでいたそうです。続けて彼らは、喫煙シーンを多く含む映画を見た子どもの喫煙のリスクが高まることを指摘した研究を引き合いに出し、テレビでの喫煙描写に見直しを迫ります**。
日本でも同様の問題については長く議論が行われており、1998年にJTはテレビでの広告を終了しました。しかし日本禁煙学会の調査によれば、現在でもテレビ番組では多くの喫煙シーンが喫煙という行為を否定しない形で登場しており、これが喫煙を正当化させ喫煙開始の誘引になるという影響を与えている、とのことです。また、アメリカでは2007年にディズニーグループを初めとする映画会社が喫煙シーンをすべての映画から排除することを決定しました。
さて、これら規制の動きはどれも「喫煙行為が不健康であること」を根拠にしています。確かに「子ども」を引き合いに出されてしまうとなかなか反論しづらいところがありますが、それでは「不健康な行為」に至らせてしまう可能性のある表現はおよそ規制されるべきなのでしょうか。たとえば、殺人を扱った刑事もののドラマや暴力的な不良が主人公のドラマも、それが「不健康な行為」を誘発するのであれば規制されるのが正当なのでしょうか。確かに、ドイツでのナチスに関する法律のように「それが否定的描写であれば良い」という観点から規制されればそれらの表現がメディアから完全に駆逐されることはないでしょう。ですが、すべての犯罪者が法の裁きを受け更生し、すべての不良が優れた教師の指導の下に社会化されていく物語に満ちた世界、すなわちすべてがハッピーエンドの世界(タバコを吸っている「悪者」は禁煙して「真人間」になるか肺がんでとっとと死ぬ世界)、僕にはなんだか不気味に思えます。
これに対して、禁煙や分煙の推進派を非難する人々は、しばしば「喫煙行為が伝統文化である」と言ってその「敵」を攻撃します。ですが、少なくとも日本に限っていえば喫煙行為が大衆に広がったのはせいぜい100年かそこいらですし、それとて喫煙行為を称揚するような企業による広告や政府による軍人への配給といった「上からの意図」があったことは否めないでしょう。すなわちその(喫煙称揚派が言うところの)「伝統文化」をいまや規制する側に回ろうとしているのがそもそもその「伝統文化」を創出した側であるかもしれないのです。
とはいえこの「文化である」という反論はなかなかインパクトがあるようで、ドイツを初めとしたヨーロッパでは、この論理による反論をしばしば耳にしました。日本の喫煙であればケチも比較的つけやすいのですが(笑)、それが長い歴史をもっていたり、とりわけ宗教などと結びついているとなかなか難しい事態に陥ってしまいます。この難しさは、何も喫煙だけに限りません。
Josh Adamsの研究によれば、アメリカのメディアにTatoo(入れ墨),Piercing(ピアス),Body Modification(身体改造)といった単語が取り上げられる場合、80%以上の確立でネガティヴな表現が続くようです。それらは大抵「社会問題、病気、貧困、犯罪、暴力」といったものだそうです。ですが、冒頭の単語の前に「~族の」や「~教の」といった形容詞がついた場合、ネガティヴとポジティヴの比率が逆転、すなわち80%以上の確立で「興味深い、独特、歴史」といった表現が続きます。換言すれば、入れ墨やピアスはアメリカのメディアにおいては否定的なものですが、それが「文化」とつながる場合には肯定的なものへと転じるのです。
ですが、それらの「文化」は決して「健康的」ではありません。たとえば、アメリカで有名な俳優兼プロレスラーのザ・ロックことドゥエイン・ジョンソンの祖父ピーター・メイビアは、往年の名レスラーですが、自らの出身であるサモア族伝統の入れ墨を入れたことが原因で悪性の血液腫瘍を発症し早世します***。
このような危険を伴った「不健康な行為」も「文化」であれば、なかなか批判されづらい傾向にあるようです。もちろんアフリカ諸国の女児への性器割礼やアボリジニの男児への尿道割礼などには批判的な目も向けられていますが、一方でそれらへの介入が「文化を破壊してしまう」という声も少なくありません。
さて、だいぶ話が錯綜してまいりましたが(笑)、マーラーよろしく「喜びに満ちて緑の森を緩歩」しましたので、夜の帳が下りる前に森を抜けましょう。
僕のギモンは以下の2つです。
1.健康を理由にした規制はどの程度まで正当化できるのだろうか。
2.文化と健康の絡み合いに如何に関わっていけばいいのだろうか。
みなさまからご意見賜ることが出来れば幸いです。
*この論文を読んだとき最初に頭をよぎったのは、ドイツではある時間以降になると、有料ではないごく普通のチャンネルでポルノを放送する、ということでした。日本では到底考えられないことだったのでドイツ人の友人に尋ねたところ「この時間になれば子どもは寝ているから問題ないさ。それにもし見たとしても、あんまりハードなのはやってないから大丈夫だよ!」と言って笑っていました。一方でドイツ版の『クレヨンしんちゃん』ではしんちゃんの「ゾウさん」にモザイクがかけられていました(僕には逆に性的に思われたのですが・・・)。
もし日本の非有料放送がポルノを放映したらそれこそ大問題になるでしょう。ですが、しんちゃんの「ゾウさん」は確かに「下品である」という非難こそあれ、モザイクをかけるべきだ、と言った議論は聞いたことがありません。
**ドイツは、ナチスの反タバコ政策への反省があるのか、ヨーロッパのその他の国々と比べ喫煙に関しては比較的寛容な印象があります。街のいたるところに灰皿がありますし、レストランも分煙化された、とはいえオープン席ではごく普通にタバコを吸うことが出来ます。また、価格自体も他のヨーロッパ諸国と比べると割合安いです。
***孫のドゥエイン・ジョンソンもサモア式の入れ墨を入れていますが、近年は入れ墨も技術が上がってきており、そこまでの危険性は伴わなくなってきました。しかし、進歩する社会の反対物として描かれがちな入れ墨やピアスといったものが、その進歩する技術の恩恵を受けて以前より「安全」かつ「望んだ通り」に行われるのって、なんだか非常に弁証法的で面白いですね。
日本でも入れ墨や身体改造の愛好家たちが「自分たちは反社会的な存在ではない」ことをアピールして理解を(差別や奇異の目で見ることをやめるように)求めていますが、これって、「反社会的存在」としての主体化するために入れ墨をいれたり指を詰めたりしたアウトローの人たちにとってはエライ迷惑でしょうね。まあアウトローがわれわれにとっては迷惑なわけですが。
(Xenakis48)
2012年7月29日日曜日
指定管理者制度
こんにちは。
お茶大のMMMです。
私は物理学専攻なのですが、「文化マネジメント」ってなんだろう?
わからないけど面白そう!と思い、授業を受講しました。
受講してみて、今まで知らなかった知識や見方を得られ、とても有意義でした。
私は文化・芸術に関する知識が浅く、あまり提供できる情報もないので、
今回は授業で学んだ「指定管理者制度」に関する感想を書きたいと思います。
文化マネジメント論の授業で私が特に興味深いと思ったのは、「指定管理者制度」についてです。
指定管理者制度は、皆さんもご存じのとおり、公の施設の管理・運営を地方公共団体等だけでなく、民間企業やNPOなどを含む幅広い団体に代行させることのできる制度です。
私は授業で初めてこの制度について知りましたが、きちんと活用されれば非常に良い制度だなと思いました。
民間が運営する方が利用者にとって便利なサービスが増えることも多いと思いますし、
集客ノウハウも行政より民間の方が長けており、またコスト意識が高く効率的な経営が可能だと思うからです。
例えば、私は千代田区立図書館を何度か利用したことがありますが、ここは22時まで開館しています。
私は以前、千代田区内の企業で会社員として働いていたことがあるので、会社帰りにこの図書館を利用していました。
ふつう図書館というと、大体20時くらいまでしか開館していないので、
会社員が仕事が終わった後に利用するのは時間的に難しいことが多いです。
しかし千代田区立図書館は22時まで開館しているので、珍しい図書館だな、便利だな、という印象をもっていました。
今、指定管理者という制度を知って、改めて調べてみると、千代田区立図書館は
2007年に指定管理者による運営を開始してから、22時までの開館だけでなく、
その他多くの新しいサービスの企画・開発が行われ、
来館者数を大幅に増やしたことで注目された図書館だったようです。
もちろん、指定管理者導入・運用にあたっては、
利便性や収益だけでなく、文化・学術的な内容・水準が保たれているかなどを
行政がモニターしていく必要はありますが、
この制度が良い形で利用されて、活性化していく施設が増えると良いと思います。
実際に運用していく上で、色々な課題や問題点もあるとは思いますが、
指定管理者を選定・評価する行政側に、この制度を最大限に活用する意欲・能力があれば、
そうした課題や問題点も、少しずつ改善していくことができると思います。
また、芸術・文化に関わる職業につきたい人にとっても、この制度によって活躍の場が
多種多様に増えるのではないでしょうか。
(茶・MMM)
お茶大のMMMです。
私は物理学専攻なのですが、「文化マネジメント」ってなんだろう?
わからないけど面白そう!と思い、授業を受講しました。
受講してみて、今まで知らなかった知識や見方を得られ、とても有意義でした。
私は文化・芸術に関する知識が浅く、あまり提供できる情報もないので、
今回は授業で学んだ「指定管理者制度」に関する感想を書きたいと思います。
文化マネジメント論の授業で私が特に興味深いと思ったのは、「指定管理者制度」についてです。
指定管理者制度は、皆さんもご存じのとおり、公の施設の管理・運営を地方公共団体等だけでなく、民間企業やNPOなどを含む幅広い団体に代行させることのできる制度です。
私は授業で初めてこの制度について知りましたが、きちんと活用されれば非常に良い制度だなと思いました。
民間が運営する方が利用者にとって便利なサービスが増えることも多いと思いますし、
集客ノウハウも行政より民間の方が長けており、またコスト意識が高く効率的な経営が可能だと思うからです。
例えば、私は千代田区立図書館を何度か利用したことがありますが、ここは22時まで開館しています。
私は以前、千代田区内の企業で会社員として働いていたことがあるので、会社帰りにこの図書館を利用していました。
ふつう図書館というと、大体20時くらいまでしか開館していないので、
会社員が仕事が終わった後に利用するのは時間的に難しいことが多いです。
しかし千代田区立図書館は22時まで開館しているので、珍しい図書館だな、便利だな、という印象をもっていました。
今、指定管理者という制度を知って、改めて調べてみると、千代田区立図書館は
2007年に指定管理者による運営を開始してから、22時までの開館だけでなく、
その他多くの新しいサービスの企画・開発が行われ、
来館者数を大幅に増やしたことで注目された図書館だったようです。
もちろん、指定管理者導入・運用にあたっては、
利便性や収益だけでなく、文化・学術的な内容・水準が保たれているかなどを
行政がモニターしていく必要はありますが、
この制度が良い形で利用されて、活性化していく施設が増えると良いと思います。
実際に運用していく上で、色々な課題や問題点もあるとは思いますが、
指定管理者を選定・評価する行政側に、この制度を最大限に活用する意欲・能力があれば、
そうした課題や問題点も、少しずつ改善していくことができると思います。
また、芸術・文化に関わる職業につきたい人にとっても、この制度によって活躍の場が
多種多様に増えるのではないでしょうか。
(茶・MMM)
2012年7月26日木曜日
人形浄瑠璃文楽への誘い
こんにちは、芸・fmiと申します。コメントではお邪魔していましたが、記事投稿ははじめてです。よろしくお願い致します。
さて先日、私は文楽公演に行って来ました。大阪にある国立文楽劇場での「夏休み文楽特別公演」内、第3部サマーレイトショーの『曽根崎心中』です。
公演2日目ということで、客席は満員。席も2列目とあって、至近距離で堪能してきました。お初可愛かったなぁ。
『曽根崎心中』は大変有名な演目なので、ご存知の方も多いと思います。江戸時代、大阪で実際に起きた心中事件が元になっているのですが、それが脚色され文楽として上演されたのが、なんと事件のたった1か月後!しかも主人公の「お初」「徳兵衛」は実名そのままです。今じゃ考えられませんよね(笑)。当時の舞台はワイドショー的な要素が強かったんですね。
今、文楽といえば大阪市の補助金カット問題が話題になっていますよね。が、私はこの騒がれ方には少々疑問を感じております。
というのも、「市長vs文楽そのもの」の対立にすり替えて煽るような報道や論調が多く、それにより本当に議論されるべき問題(文楽協会のシステムや意義、天下り問題、補助金の使い道の正当性など)が隠れてしまっているように見えるからです。
また芸術ファン界隈でも、現状の検証無しに「文楽(芸術)=善」「補助金カット=悪」という単純な善悪二元論に終始した論調が多く、正直少し複雑な思いです。
私は文楽が好きですが、現行のシステムや運営法に問題が無いとは思いません。また補助金が市民の税金から賄われている以上、それの使い道に対する「議論」や「検証」はあって然るべきだと思います。
ただ、今の状態ではその議論、話し合い自体が成立していないように感じるんですよね…。
(ちなみに、文楽協会の意義を巡る議論は、文楽劇場開場のころからあったようです。しかしその後30年間放置され、今に至ります。)
とはいえ、これだけ注目が集まっている今は、文楽にとってある意味チャンス。これを機に少しでも興味を持つ人が増えればいいな…と思います。
皆さまも、この夏是非公演に足を運んでみて下さい。学生は学割が効き、約半額で観ることが出来ますよ!
大阪では国立文楽劇場で8月7日まで、東京では国立劇場で9月5日〜24日まで公演があります。
(芸・fmi)
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