ラベル 規制・検閲 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 規制・検閲 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2012年11月21日水曜日

『ふがいない僕は空を見た』のレーティングに関して

 11月17日(土)より公開されているタナダユキ監督作品『ふがいない僕は空を見た』*を鑑賞した。新聞各紙の映画評にも取り上げられているように、邦画の中では本年度有数の傑作である。
 (以下に於いてストーリーへの言及があることを予めご了承いただきたい。)この映画は、不倫関係にある男子高校生と専業主婦を主人公にした、人が生きているということのかけがえのなさを印象付ける作品である。高校生の母親は助産師であり、その仕事ぶりと、吐露する想いからは、人が生まれ生きているということそのこと自体への無条件の肯定を感じさせ、また主婦は姑からの強い初孫の期待を受けながら、苦痛を伴う不妊治療を受けている。人が生まれること、生きることに在る価値を、想起させる作品である。
 一方で、これは私が特にこの場でこの映画を取り上げる意味にも関わるが、作中における2人の主人公の不倫関係は、ある時点までひたすらにセックスで描写される。主婦はアニメのコスプレを趣味としており、映画の冒頭は2人のコスプレでの行為である。そして2人のセックスは、その本源的な目的であるはずの生殖とは関わらないものであり、不妊治療からの逃避であったり、性欲を満たすためであったり、後にはただ愛し合うが故のものであったりする。そしてそれが、上述の、人間が生まれること生きることそれ自体と切り離されてしまっているところが、登場人物たちが生きる上で、どうにもならない切なさとして感じられる。
 様々な困難や苦痛にぶつかりながら人が生きていくということを描いた作品であり、私は友人にも勧めたいと思いながら劇場を後にした。高校生を主人公とし、その友人も重要な登場人物であり、学校の様子を描写することから、高校生であってもこの映画から考えることは多いであろう。しかしながら、この作品をわざわざ文化政策の講義と関連付けられたこの場で話題にしたいのには、理由がある。それは、この作品が、日本のレーティングでは最も厳しいR18+の指定を受けているからである。かなり長く露出の多いセックスシーンがある為に指定を受けることは仕方のないこととも思えるが、一方で高校生を主人公とし、高校を舞台の一つとして展開される含意の多い物語でありながら、高校生の年齢にあたる人々の鑑賞を阻んでいることは、非常に勿体のないことであるように私は考えている。
 ホームページによると、映倫(映像倫理委員会:映画関係者の自主的な団体であるが、実際には規制や司法判断に対しての自主規制の役割を担うと考えられる)は「表現の自由を護り、青少年の健全な育成を目的」**としている。この映画における性的描写もまた、18歳未満の人々が観ると彼らの「健全な育成」の障害となるものとの審判であろう。しかしながら一方で、上に長々と私が映画に関して素人の立場から論評を試みたように、この作品のテーマは、人間が生まれること生きることそのものに関わっており、高校生が鑑賞してもそれに関してより思索を深められそうなものであり、性的なシーンもまた、上にも言及したように、登場人物たちの生き方を考える上での重要な描写である。この映画を高校生に見せるために、監督に性的なシーンを削った上で完成品として世に出すことを提案したら、それは却下されるであろうし、私もそのような改変が望ましいものとは思わない。更に言えば、そもそもこの作品に於いて高校生がセックスに関わることは、決して非現実的な描写ではなく、それが現実にも起こり得ることだからこそ、ここで描かれていると想像できる。であるとするならば、性的表現を取り上げての年齢制限が実際に「青少年の健全な育成」に寄与することができるかは疑わしい。そうでなくとも、少なくとも彼らが近い将来に於いて直面する問題に対して、何らかの含意があると考えることもできるのではなかろうか。
 私はこの映画を全年齢に開放すべきだと訴えかける積りはないし、性的な描写を含む全映画を高校生に開放せよと訴えている積りも全くない。ただ、私自身が大変感動し、多くの人に薦めたいと思った映画に対し、その中の表現を巡って年齢制限がかけられており、そしてその表現が、作品の重要な意味を与えているものであると考えた為、ここで問題を提起したものである。この映画に年齢制限をかけることは、健全な「青少年」の育成の為かもしれないが、それは、その育成の対象となる人々の、人生に関する思索の機会を奪っている点で、少し勿体ないと、私は思うのである。

*2012、日本映画。テアトル新宿他で公開中。劇場公開版はR18+指定。二次市場向けの再編集版ではR15+指定を受けた。
**映倫ホームページ。http://eirin.jp/。2012年11月21日参照。

(早・宇佐美)

2012年7月26日木曜日

- 新しい(?)形の検閲についてー 写真展「重重-中国に残された朝鮮人元日本軍『慰安婦』の女性たち」の事件(?)から

こんにちは。 始めまして。私は東京芸術大学M1のjinと申します。暑い中、皆さん元気で過ごしてますでしょうか?まず少し自己紹介をさせて頂きます。私は韓国人の留学生で、学部(韓国の大学)では心理学を勉強しました。心理学を勉強したからか、理由は良く分かりませんが、現在、アートマネジメントの勉強をしながらも常に個人の問題や社会問題に目が向いてしまいかちです。研究したいテーマも簡単に言えば‘社会包摂’に関するアート活動です。(日本の様々な活動を知りたいので教えていただくと、とてもありがたいです。)
早くここに文章を書こうと思いましたがなかなか出来ず、今になってしまいました。前からみなさんが書いた文章を読んで, 同じ分野にもかかわらず個人の関心事や観点がこんなに多様なんだと感じて刺激も受けたし,勉強にもなりました。
私は一ヶ月前ぐらい,facebookを通じてこういうことを知られました。新聞にも記事化されたので読んだ 方々もいらっしゃるかもは知れません。
簡略に記事による内容を整理しますと,“名古屋に在住している韓国人写真家安世鴻さんの写真展、「重重−中国に残された朝鮮人元日本軍『慰安婦』の女性たち」が7月に新宿のニコンサロンで開催される予定だったが,写真展に関する抗議が殺到したことから、開催予定日の先月である6月になって突然′中止決定になった。またその理由は展示内容が政治活動に当たるという理由だった。安さんはこれに不服としてニコンが予定通り写真展を開催するよう求める訴えを東京地裁に起こし、6月22日東京地裁からニコンに写真展の開催を命じる 仮処分が下され,予定通り写真展が開かれた。” という一連の内容でした。
写真展が開かれた後にも色々なことが起きたと分かっています。
私は最初、この事件(?)に接した時, 率直に言わば,一人の韓国人として感情的に反応しました。
しかし, このようなことが特に芸術文化の分野ではどの国でも,あるいはどんなジャンル,どんなテーマを問わず発生するのではないか!ということを悟った(?)ので、少し違う観点で私が感じたことや気になったこと などを書いてみようと思います。(たくさんコメントしてください。! 私が思いもよらなかった部分を共有できたらと思います。)

 
まず, 私がこの事件(パッと思いつく言葉が無いので事件といいます。)を知って,最初に思ったのは今の時代で‘検閲’は誰によって行われているのかということです。既存で‘検閲’はたいてい国家や公権力によるもので, それによって‘表現の自由’は抑制, 抑圧されて来たことは世界史の流れで簡単に見られます。現在には憲法第21条で検閲を禁止,‘表現の自由’を保障させているし, 今度の事件でもその憲法に基づいて,東京地裁から写真展を予定通り開催を命じる処分が出たと考えられます。
国家は表現の自由を保障させているのに比べて,今度の事件で見れば, ‘ニコン’という企業やその企業に圧力をかけた‘団体あるいは市民’が‘検閲’の主体として機能しているのではないでしょうか?
現代社会においてはどうやら, 国家や公権力による検閲よりは企業や団体, すなわち社会的に権力を持っている誰かによる‘検閲’がもっと行われているのではないでしょうか? そうだとしたら芸術,創作活動に対する‘検閲’はいつも行われていると見られます。(実際にこの事件が起こって,写真家たちの間では本当に,安さんの写真展がニコンによって中止になったら, これからニコンサロン(権力者)で展示をしようとするアーティスト (非権力者)らが自分の表現が歪曲されたり、抑圧されることになることを憂慮する声が多かったです。)
“それが事実だ。”(つまり, 社会的権力を持った企業や機関による検閲が存在する。) と言ったら, アーティストとそういう表現者や表現活動を企画, 運営をする側に要されることは何でしょうか?私が思ったことはどんなにその活動, あるいは作品の価値を普遍的に,一般的なことにさせるかについての洗練されたデザイン(設計ですかね?)が必要なのではないかと思いました。
今度の例をみると,‘韓国人‘写真家が政治的色が多いテーマ扱って(そのように思われたから),‘日本’で展示をする際には反発があることがもしかしたら当たり前なのです。(写真家の本来の意図でこのような反発が起きるのを願ったし,それによる波及を狙ったことだったら,今度の展示やその結果はとても成功的だと判断されますが, もしかそうではないと言っても,このような一連の過程で‘写真’が持っている影響を改めて感じることができます。)
そうだとしたら,この写真展が追い求めること,価値が何なのかを見せることに対するデザインが充分に設計されたらどうだったでしょうか?写真家である安さんはあるインタビューでこう述べました。
“慰安婦の問題は日本と韓国だけの問題ではない。性の問題は世界の戦場で今もある。歴史的な反省と評価がなければ過ちは繰り返される。」私はこの言葉にまったく同感します。そうだからこのような彼の意図あるいは価値観がみんなと共有できなかったのが残念で,このような面から彼の活動や価値をどのような形で 見せるのかが共に設計されなければならないのだと感じました。
必ずしもそれが,アーティストがすべきことではないが,少なくとも企画,運営をする立場では必要ではないでしょうか? 連れて,表現活動,芸術活動をするにおいて政治的見解を異にする,あるいは価値を異にする集団の圧力に現場ではどんな対応が必要でしょうか?? これはただの質問ですが…(現場経験が多い方のアドバイスを…)
文章をまとめようと思います。
事実, 私はこの写真展に直接に行って見てないため,その内容がどうだったかについては言えないですが,この写真展をめぐって起きた裁判と日本国内の反応,またそれによる韓国内の反応,また国内外のアーティストたちの反応などを記事とSNSで見ながら,‘写真展’というのが及ぼす影響(個人と社会に及ぶ影響)とそれによる結果がどうか新しく分かりました。
個人的には,これから現場で活動をして,その活動の価値をきちんと考え、みんなに知らせるためには非常にたくさんの勉強をししなければいけないと言う決心をするようになりました。
それでは, 今日は以上で、また書きたいことはありますが、次回に書けたらと思います。
コメントよろしくお願いします。

 
芸大 jin
参考記事 

2012年6月28日木曜日

風営法とダンス


反対活動が動き出して話題にはなったので、もうご存知の方もいると思いますが、日本では現在、営業目的でダンスをおこなうお店やクラブが1948年に制定された風営法によって様々な規制がかけられています。規制の一つとして、営業は午前零時であり、日の出までの時間は営業が禁止されています。現状では、近年無許可営業という名目で、クラブやライブハウスの摘発が相次いでいるそうです。

風営法の第一条には、「この法律は、善良の風俗と清浄な風俗環境を保持し、及び少年の健全な育成に障害を及ぼす行為を防止するため、風俗営業及び性風俗関連特殊営業等について、営業時間、営業区域等を制限し、及び年少者をこれらの営業所に立ち入らせること等を規制するとともに、風俗営業の健全化に資するため、その業務の適正化を促進する等の措置を講ずることを目的とする。」とされています。

京都を中心に活動する「Let,s DANCE署名推進委員会」が発起され、坂本龍一や大友良英、作家のいとうせいこうも参加し、「フジロックフェスティバル」や「サマーソニック」の主催者も、反対活動を積極的におこなっている模様です。

【Let,s DANCE署名推進委員会のHP】

上記した第一条をみると、やはり私は、「善良」「清潔」「健全な育成」といった言葉が気にかかります。
この法律によって、純粋に夜というムードの中でダンスを楽しみたいクラブまでもが摘発される状態であるならば、果たして、ダンスによって人の善良さや健全さが損なわれるというのだろうか、と問いかけたくなります。
個々の状況を判断して、時間がかかりながらも、法を定めたり規制したりすることせずに、全てを網羅して禁止してしまうならば、法律の専門家など必要ないのではないでしょうか。
そもそも、法とは何のためにあるのか。
市民のためにあるのではないでしょうか。
警察のためでもなく、行政のためでもなく、規制のための規制でもないと思っています。
青年やおばあちゃんまで身体を動かしてダンスすることが可能であり、生きていく上での楽しみとなってきたはずです。夜という危険な匂いを楽しみながらも、危険なことをするのではなく、ダンスをするために集まることで、様々な交流も生まれてきたと思います。

何のために規制するのか、やはり今一度考えてほしい。
その規制によって、損なわれるものは何なのか、も考えてほしい。

そもそも、どこまでがダンスなのでしょうか。お客さんが身体を曲にのって揺らし始めていたらダンス?どこまで動かしていたらダンスなの?
様々な疑問をこの投稿にも散りばめてしまいましたが、文化や芸術に携わる同世代の方々の意見も、この場をお借りして是非聞いてみたいです。
よろしくお願いします。

[番外編~私の気持ちがホッコリとした、ダンスにまつわる話~]
①先日、夜遅くに電車に乗っていたら、隣に座った仕事帰りのカッチリとスーツを着た30代の男性が、スマートフォンで、ダンスのPVを見ていました。5人くらいの女性グループのPVで、結構激しめのダンス(K-popっぽかったです)がムーディな照明の下で繰り広げられている映像でした。真剣に見ているその人を見て、何だかやはりダンスは、広く人に享受されている気もして、嬉しくなりました。(その男性と映像のギャップにドキドキしながら、私も横からその映像に魅入ってしまって、ギロっと睨まれましたが、、、)

②風営法とその反対活動の記事は、ファイスブックでもしばしばシェアされていて、さほどダンスや音楽にゆかりのなかった人もコメントしたりと反応していたので、クラブという場が、様々な人の多様な関心が集まるクロスした場なのだなあと改めて思いました。

③深夜に駅のホームを歩いていると、ベロンベロンによったサラリーマンが、カラオケ帰りかクラブ帰りなのか、余韻とともに、グニャグニャとした身体で踊ってたりとして、かなり良い動きをしていたりします。そういう場をみると、実に色んな人がダンスしたり、身体を動かして楽しんでいる!としみじみ感じます。

私は今、アートマネージメントや文化政策を専門にした研究室に在籍していますが、アートや表現活動がどのように人々と出会うのか。どのように人はアクセスしているのか、ということを自身への問題提起として、理念の勉強や実践活動をおこなってきました。今後もこの課題を掲げて研究を続けていこうと思っており、大切にしていきたいと思っています。
クラブという場も、実に様々な背景をもつ人たちがダンスにアクセスする重要な場であると感じているため、ダンスとクラブにまつわる風営法について今回投稿させて頂きました。

ついつい熱くなってしまい、長文になり申し訳在りません!
意見を気軽に交換できたら幸いです。

(芸・kalinga)