2012年12月20日木曜日
開発援助と文化
皆さまこんにちは。
早稲田大学政治学研究科の aki と申します。
小林真理先生の「文化政策」を受講しています。
2年前にタンザニアの中学校でボランティアをした経験から、
「子どもの名前」と「宗教を伴った開発援助」について考えてみたいと思います。
まず皆さんタンザニアについてご存知でしょうか。
タンザニアは東アフリカに位置する国家であり、日本ではキリマンジャロやマサイ族が比較的有名です。
他部族からなる国家ですが目立った衝突も無く、独立から50年間平和に成長しています。
そんなタンザニアへボランティアへ行って1番驚いたのが「子どもの名前」でした。
タンザニアには生徒の名簿のようなものはなく、生徒の名前は1人1人聞いてメモしなければならないのですが
公用語であるスワヒリ語や部族の言語に由来する名前は発音の難しいものが多いです。
60人分(1クラス)の名前を覚えるとなると大変だと覚悟していたのですが、
実際に尋ねてみると「ビビアン」や「クリス」など耳に親しんだ英語の名前も多く、
イスラム教、伝統的宗教に由来した名前と同じくらいの割合でした。
英語の名前が多いことは、イギリスの旧植民地であるためでもあるのですが、今回は宗教の影響について考えてみたいと思います。
まず、かつてタンザニアでは各部族が土着の、伝統的宗教を信仰していました。
現在はキリスト教・イスラム教がその規模を拡大しておりますが、
このようなキリスト教やイスラム教の割合を高めた要因の1つとして考えられるのが、
植民地支配期の布教活動や開発援助に伴った布教活動です。
と言いますのも、布教活動は教育開発を伴うケースが多く、植民地支配期の教育機会の拡大に貢献したと言われているからです。
独立期に教育を受ける人々がキリスト教やイスラム教の洗礼を受けていったこと、
現在も私立の学校の運営が、宗教NGOによる開発援助により成り立っていることから、
タンザニアには宗教的な学校が多く、人々の間に宗教が広まりやすい土壌があることが分かります。
(もちろん植民地時代のイギリスの政策も多いに影響しているでしょうが...)
かつては大半をしめた伝統的宗教の信仰者が減少傾向にあり、現在はキリスト教・イスラム教・伝統的宗教は同じくらいの割合で分布しています。
このような新しい宗教の拡大によって、キリスト教やイスラム教を信仰する夫婦が増え、
生まれた子どもに宗教に由来する名前をつけたことから、伝統的な名前の減少に繋がったようです。
余談ですが、近年は宗教に由来しない個性的な名前も増えており 'Godlisten', 'Godess', 'Happiness', 'Lovely' といった名前の子どももいました。
日本でも個性的な名前が「キラキラネーム」などと言われておりますが*、
その現象は先進国のみならず、タンザニアのような最貧国と呼ばれる国でも顕著なようです。
*「新生児の名前「Apple」「Siri」が急増 米調査(12/3)」 http://www.cnn.co.jp/fringe/35025164.html (2012/12/21アクセス)
先進国の「子どもの名前」が取り上げられているニュース記事。
(早・aki)
2012年12月13日木曜日
金曜2限「文化政策」
皆様こんにちは。
早稲田大学大学院政治学科のK.Iと申します。
小林真理先生の「文化政策」の授業を受講しています。
「国民の教化、アイデンティティの形成」としてのナチス政権下における「文化政策」について書かせていただきます。
まず、私自身は古代ギリシャの政治思想、特にプラトンとアリストテレスのそれに関して研究をしているのですが、プラトン『ポリテイア(国家)』で展開される教育論が、ナチス政権下においてその文化政策の理論的根拠として援用されたことはよく知られていると思います。例えば、プラトンとヒトラーは相似形のような関係にあると捉えたフランツ・ストロイシュ、1933年の党大会(「勝利の党大会」)での演説で民族間の「反平等主義者」プラトン像を描き出したアルフレート・ローゼンベルグなど、ナチ関係者を含め多くの人物がプラトンを引用してナチス政権の正統性を主張しました。
ここで彼らの主張とプラトンの原典を比較して、彼らのプラトンがいかに歪んだものかを示すことはしません(興味のある方は、佐々木毅『プラトンの呪縛』講談社、1998年をご参照下さい)。
ナチスによる文化政策に限らず、「国民の教化、アイデンティティの形成」を目的とする文化政策は、その本質上「我々」と「他者」を区別するものであるため、「我々」から除外される人々に対する排他性を形成するという側面もあります(このことはスリランカにおけるシンハラ政策からも窺い知ることができるでしょう)。つまり、文化政策は寛容であると同時に独善的であり、文明的であると同時に野蛮的でもある、そのような一面を持ち合わせている。
私個人の興味関心の話で申し訳ないですが、歴史上のこれらの危機の実相との関係でプラトンのもつ現代的な意義を、改めて考える機会となりました。
(早・K.I)
早稲田大学大学院政治学科のK.Iと申します。
小林真理先生の「文化政策」の授業を受講しています。
「国民の教化、アイデンティティの形成」としてのナチス政権下における「文化政策」について書かせていただきます。
まず、私自身は古代ギリシャの政治思想、特にプラトンとアリストテレスのそれに関して研究をしているのですが、プラトン『ポリテイア(国家)』で展開される教育論が、ナチス政権下においてその文化政策の理論的根拠として援用されたことはよく知られていると思います。例えば、プラトンとヒトラーは相似形のような関係にあると捉えたフランツ・ストロイシュ、1933年の党大会(「勝利の党大会」)での演説で民族間の「反平等主義者」プラトン像を描き出したアルフレート・ローゼンベルグなど、ナチ関係者を含め多くの人物がプラトンを引用してナチス政権の正統性を主張しました。
ここで彼らの主張とプラトンの原典を比較して、彼らのプラトンがいかに歪んだものかを示すことはしません(興味のある方は、佐々木毅『プラトンの呪縛』講談社、1998年をご参照下さい)。
ナチスによる文化政策に限らず、「国民の教化、アイデンティティの形成」を目的とする文化政策は、その本質上「我々」と「他者」を区別するものであるため、「我々」から除外される人々に対する排他性を形成するという側面もあります(このことはスリランカにおけるシンハラ政策からも窺い知ることができるでしょう)。つまり、文化政策は寛容であると同時に独善的であり、文明的であると同時に野蛮的でもある、そのような一面を持ち合わせている。
私個人の興味関心の話で申し訳ないですが、歴史上のこれらの危機の実相との関係でプラトンのもつ現代的な意義を、改めて考える機会となりました。
(早・K.I)
リニア・鉄道館にて考えたこと
リニア・鉄道館(名古屋市港区)を見学した。ここでは、その展示内容とそこから読み取れる博物館の理念や訴えようとしているもの、またそれについて私が考えたことについて述べたい。
まず、この博物館の概要を公式ホームページ(http://museum.jr-central.co.jp/)に基づいて説明したい。この博物館は昨年3月に開館した、東海旅客鉄道株式会社(JR東海)が直営する鉄道博物館であり、そのコンセプトは同館ホームページによると、「現在の東海道新幹線を中心に、在来線から次世代の超電導リニアまでの展示を通じて『高速鉄道技術の進歩』を紹介」すること、「鉄道が社会に与えた影響を、経済、文化および生活などの切り口で学習する場を提供」すること、そして「模型やシミュレータ等を活用し、子どもから大人まで楽しく学べる空間」であることとされ、「夢と想い出のミュージアム」という呼称も館名に続く形で付けられている。展示は主に、実際の車体の展示、鉄道技術のモデル展示、史料展示等であり、シミュレータにて運転士や車掌の業務の一部を体験することが出来る。
私が見学したのは平日であり混雑はしていなかったが、未就学児と保護者、高齢者、外国人のツアー客等幅広い年齢の人々が来館していた。入館すると、まず3両の車体が展示されている部屋へ出る。この3両は、それぞれC62型蒸気機関車、955形式新幹線試験車(300X)、そして超伝導リニアのMIX01-1である。これらは「高速鉄道のシンボル」として位置づけられており、それぞれ狭軌に於ける蒸気機関車の最高速度、電車の最高速度、鉄道の最高速度を記録した車両であり、何分かに1回、それを説明する映像が流される。この部屋を抜けると、メインの展示室に入り、そこには30数両(ホームページによれば実物車両は全部で39両)の車両が展示されている。0系、100系、300系の新幹線車両、381系電車、52系電車等が前面に並んでいる。概ね歴史的な順序で入り口から見て右から左へ配置され、後方にも何両もの貴重な車両が、美しく磨かれて展示されている。殆どの車両では、座席に座ることは出来ないが、復元された内部の見学も可能になっている。また、その展示の周りにはモデルを用いた地震感知と緊急停止の仕組みやATCの仕組み、台車の仕組みや座席、改札、オペレーション全般の、映像や模型を用いた展示が行われている。その他精巧なジオラマの展示や、超電導リニアの技術に関する展示、シミュレータ、2階では史料の展示、電車の玩具などを置いた子ども用の遊び場等がそれぞれ部屋に分かれて配置されている。リニア・鉄道館という名前であるが、どちらかというと超電導リニアに関する展示よりも在来線・新幹線に関する展示のほうが多い。
この展示の於いて一貫しているのは、そのコンセプトにも示されている通り、高速鉄道技術の重視である。新幹線車両や技術の展示は勿論、前面に展示されている381系電車も、日本初の振り子式車両として開発され、名古屋と長野を結ぶ特急「しなの」号に於いて、その丁度後方に展示されている気動車特急の時代から大幅な時間短縮を実現した車両である。そして、シンボル展示に位置づけられている3つの車両もまた、前述したように速度の世界記録を出した車両である。同行した鉄道ファンの友人の話によると、展示品の一部、特に旧式の車両や史料は、JR東海が嘗て営業していた佐久間レールパークに展示されていたものである。それを考慮すれば、同社がこの新しい博物館の展示品を選び、展示を作り上げてゆく過程には、今後の開通と新たな主要事業となるであろう、東京、名古屋、そしてゆくゆくは大阪を結ぶ超電導リニアへと続く、都市間高速鉄道の重視と、そのアピールが一貫した理念として見えてくる。
高速化は、鉄道事業の目指すものの一つであることは間違いがない。そしてそれは、新幹線にその収益の大部分を頼るJR東海(同社の旅客運輸収入:http://company.jr-central.co.jp/company/achievement/financeandtransportation/transportation1.html)にとって、安全輸送に次ぐ最も重要な事業上の関心事であろう。しかし、鉄道事業が旅客に提供できるものはそれだけではない。勿論それらをJR東海が軽視しているというわけでは無いが、快適な居住性の提供、便利な駅の提供等、高速化とそれが完全に分離している訳では無いが、高速化の他にも鉄道事業が目指すべきもの(ここでは安全輸送は、私はそれらの基盤となる大前提としてあえて枠外に置いている)が存在する。それらではなくて、「高速鉄道技術」を前面に打ち出すということはどういうことなのか。それをこの博物館が強調する理由の最大のものは、前にも少し触れたように、JR東海の経営方針であろう。新幹線でその収益の大半を稼ぎ、将来に於いては超伝導リニアにより三大都市間輸送を担おうとしている。博物館を運営するにあたって同社は、「高速鉄道技術」を来館客に一番にアピールしたいであろうし、勢いすることになるであろう。しかし、ここではもう少し、「それがどういうことなのか」、つまり展示に於いて「高速鉄道技術」が前面に押し出されている意味を考えてみたい。ここで、同館のコンセプトの、ここまで私が言及してこなかった最後の一つを思い出してみよう。それは、「鉄道が社会に与えた影響を、経済、文化および生活などの切り口で学習する場を提供」することであった。鉄道はいうまでもなく社会的なインフラの一つであり、それは特に日本に於いては、まさに日常生活の一部であろう。今このブログを読んでいる人のうち、日本で生まれ育った人で、鉄道を利用したことがない人がいたら、ぜひ私に教えてほしい(私の知人で、高校まで徒歩通学だったため、高3まで一人で切符を買えなかったという者はいるが)。このコンセプトに対応する展示は、主に2階に位置する展示室で展開されている。これらの展示は、鉄道の歴史を踏まえたものであり、新たな知見を得ることの出来るものであるが、この博物館で前面に押し出されている鉄道の高速化という理念に比べると、些か展示の量が寂しい。しかしながら、この「鉄道が社会に与える影響」というものは、「鉄道の高速化」と強く繋がっている筈である。この博物館に於いて、鉄道の高速化を重視するならば、更にそれが社会に与える影響、或いは、社会からどのような影響を受けて鉄道は高速化してゆくのかということも、もう少し考えるべきなのでは無かろうか。日本最大の鉄道会社のうちの一つが、鉄道博物館を建てた。そこでは鉄道の高速化が強調されている。そのこと自体、これからの日本の鉄道と社会との関係に何らかの示唆を持つのでは無かろうか。
現在、運賃のことを考えなければ、名古屋近郊に或る私の実家から、早稲田大学の2限の授業に通うことが出来る。京都市内の大学なら、名古屋から通っている学生がいるという話をよく聞く。リニア開通後、運賃次第では、名古屋から東京に通う学生やサラリーマンが現れる。現在の東京から八王子や千葉への出張と、リニア開通後の名古屋までの出張との移動時間は殆ど変わらない。リニアの開通は、車内でサンドイッチを食べコーヒーを飲んでいる間に名古屋から東京までの移動を可能にする。名古屋から各駅停車で東京まで行くと、その間に文庫本が3冊は読める。リニアの中では1冊のうちの3分の1がやっとであろう。そのような社会がまもなく実現しようとしているのである。日本国内に於ける交通革命に違いない。一方で、JR東海はリニアがこの社会に求められていると思うからこそ、その建設をする筈である。この社会は、東京、名古屋間を1時間40分で結ぶ新幹線でよりも、更に早い移動手段を求める社会なのである。近年、鉄道ファンたちは多くの鉄道の(少なくとも彼らにとっての、おそらく多くの人にとっても)楽しみが消えてゆくことに嘆いてきた。西行きブルートレインは全廃された(寝台特急自体は残っているが)。この博物館にも車両が展示されているが、新幹線の食堂車も既に全廃されている。この社会に存した文化は、それらとは相容れなかった、ということなのであろう。
コンセプトにも示されている「鉄道が社会に与えた影響」、或いはその逆の関係と現在や未来に於いて起こる事柄も含んで、「鉄道と社会との関係」を、同じくコンセプトに示され、実際の展示でも強調されている「高速鉄道技術の進歩」に対しメタに位置づけて考察することを来訪者に促すのは、彼らにリニアや新幹線への批判的な意見をもたらしかねない可能性もあり、私企業であるJR東海が運営する博物館にとっては難しいことであろう。しかし、鉄道の利用者であり、何よりもかけがえのない交通インフラとしての鉄道に支えられている社会に生きる私たちは、一度はそういった見方で考えてみるべきでは無かろうか。日本の優れた鉄道技術は、私たちに次々に夢を与え、更にはそれを次々に現実にしてきた。超電導リニアもまた、現実になりつつある巨大な夢である。お年寄りから私たち学生まで、誰もが「想い出」にゆったりと浸れる車両と再会できる、豊富な展示のあるこの博物館で、「夢」についても、ゆっくりと考えを巡らせるのもよいかもしれない。
(早・宇佐美)
まず、この博物館の概要を公式ホームページ(http://museum.jr-central.co.jp/)に基づいて説明したい。この博物館は昨年3月に開館した、東海旅客鉄道株式会社(JR東海)が直営する鉄道博物館であり、そのコンセプトは同館ホームページによると、「現在の東海道新幹線を中心に、在来線から次世代の超電導リニアまでの展示を通じて『高速鉄道技術の進歩』を紹介」すること、「鉄道が社会に与えた影響を、経済、文化および生活などの切り口で学習する場を提供」すること、そして「模型やシミュレータ等を活用し、子どもから大人まで楽しく学べる空間」であることとされ、「夢と想い出のミュージアム」という呼称も館名に続く形で付けられている。展示は主に、実際の車体の展示、鉄道技術のモデル展示、史料展示等であり、シミュレータにて運転士や車掌の業務の一部を体験することが出来る。
私が見学したのは平日であり混雑はしていなかったが、未就学児と保護者、高齢者、外国人のツアー客等幅広い年齢の人々が来館していた。入館すると、まず3両の車体が展示されている部屋へ出る。この3両は、それぞれC62型蒸気機関車、955形式新幹線試験車(300X)、そして超伝導リニアのMIX01-1である。これらは「高速鉄道のシンボル」として位置づけられており、それぞれ狭軌に於ける蒸気機関車の最高速度、電車の最高速度、鉄道の最高速度を記録した車両であり、何分かに1回、それを説明する映像が流される。この部屋を抜けると、メインの展示室に入り、そこには30数両(ホームページによれば実物車両は全部で39両)の車両が展示されている。0系、100系、300系の新幹線車両、381系電車、52系電車等が前面に並んでいる。概ね歴史的な順序で入り口から見て右から左へ配置され、後方にも何両もの貴重な車両が、美しく磨かれて展示されている。殆どの車両では、座席に座ることは出来ないが、復元された内部の見学も可能になっている。また、その展示の周りにはモデルを用いた地震感知と緊急停止の仕組みやATCの仕組み、台車の仕組みや座席、改札、オペレーション全般の、映像や模型を用いた展示が行われている。その他精巧なジオラマの展示や、超電導リニアの技術に関する展示、シミュレータ、2階では史料の展示、電車の玩具などを置いた子ども用の遊び場等がそれぞれ部屋に分かれて配置されている。リニア・鉄道館という名前であるが、どちらかというと超電導リニアに関する展示よりも在来線・新幹線に関する展示のほうが多い。
この展示の於いて一貫しているのは、そのコンセプトにも示されている通り、高速鉄道技術の重視である。新幹線車両や技術の展示は勿論、前面に展示されている381系電車も、日本初の振り子式車両として開発され、名古屋と長野を結ぶ特急「しなの」号に於いて、その丁度後方に展示されている気動車特急の時代から大幅な時間短縮を実現した車両である。そして、シンボル展示に位置づけられている3つの車両もまた、前述したように速度の世界記録を出した車両である。同行した鉄道ファンの友人の話によると、展示品の一部、特に旧式の車両や史料は、JR東海が嘗て営業していた佐久間レールパークに展示されていたものである。それを考慮すれば、同社がこの新しい博物館の展示品を選び、展示を作り上げてゆく過程には、今後の開通と新たな主要事業となるであろう、東京、名古屋、そしてゆくゆくは大阪を結ぶ超電導リニアへと続く、都市間高速鉄道の重視と、そのアピールが一貫した理念として見えてくる。
高速化は、鉄道事業の目指すものの一つであることは間違いがない。そしてそれは、新幹線にその収益の大部分を頼るJR東海(同社の旅客運輸収入:http://company.jr-central.co.jp/company/achievement/financeandtransportation/transportation1.html)にとって、安全輸送に次ぐ最も重要な事業上の関心事であろう。しかし、鉄道事業が旅客に提供できるものはそれだけではない。勿論それらをJR東海が軽視しているというわけでは無いが、快適な居住性の提供、便利な駅の提供等、高速化とそれが完全に分離している訳では無いが、高速化の他にも鉄道事業が目指すべきもの(ここでは安全輸送は、私はそれらの基盤となる大前提としてあえて枠外に置いている)が存在する。それらではなくて、「高速鉄道技術」を前面に打ち出すということはどういうことなのか。それをこの博物館が強調する理由の最大のものは、前にも少し触れたように、JR東海の経営方針であろう。新幹線でその収益の大半を稼ぎ、将来に於いては超伝導リニアにより三大都市間輸送を担おうとしている。博物館を運営するにあたって同社は、「高速鉄道技術」を来館客に一番にアピールしたいであろうし、勢いすることになるであろう。しかし、ここではもう少し、「それがどういうことなのか」、つまり展示に於いて「高速鉄道技術」が前面に押し出されている意味を考えてみたい。ここで、同館のコンセプトの、ここまで私が言及してこなかった最後の一つを思い出してみよう。それは、「鉄道が社会に与えた影響を、経済、文化および生活などの切り口で学習する場を提供」することであった。鉄道はいうまでもなく社会的なインフラの一つであり、それは特に日本に於いては、まさに日常生活の一部であろう。今このブログを読んでいる人のうち、日本で生まれ育った人で、鉄道を利用したことがない人がいたら、ぜひ私に教えてほしい(私の知人で、高校まで徒歩通学だったため、高3まで一人で切符を買えなかったという者はいるが)。このコンセプトに対応する展示は、主に2階に位置する展示室で展開されている。これらの展示は、鉄道の歴史を踏まえたものであり、新たな知見を得ることの出来るものであるが、この博物館で前面に押し出されている鉄道の高速化という理念に比べると、些か展示の量が寂しい。しかしながら、この「鉄道が社会に与える影響」というものは、「鉄道の高速化」と強く繋がっている筈である。この博物館に於いて、鉄道の高速化を重視するならば、更にそれが社会に与える影響、或いは、社会からどのような影響を受けて鉄道は高速化してゆくのかということも、もう少し考えるべきなのでは無かろうか。日本最大の鉄道会社のうちの一つが、鉄道博物館を建てた。そこでは鉄道の高速化が強調されている。そのこと自体、これからの日本の鉄道と社会との関係に何らかの示唆を持つのでは無かろうか。
現在、運賃のことを考えなければ、名古屋近郊に或る私の実家から、早稲田大学の2限の授業に通うことが出来る。京都市内の大学なら、名古屋から通っている学生がいるという話をよく聞く。リニア開通後、運賃次第では、名古屋から東京に通う学生やサラリーマンが現れる。現在の東京から八王子や千葉への出張と、リニア開通後の名古屋までの出張との移動時間は殆ど変わらない。リニアの開通は、車内でサンドイッチを食べコーヒーを飲んでいる間に名古屋から東京までの移動を可能にする。名古屋から各駅停車で東京まで行くと、その間に文庫本が3冊は読める。リニアの中では1冊のうちの3分の1がやっとであろう。そのような社会がまもなく実現しようとしているのである。日本国内に於ける交通革命に違いない。一方で、JR東海はリニアがこの社会に求められていると思うからこそ、その建設をする筈である。この社会は、東京、名古屋間を1時間40分で結ぶ新幹線でよりも、更に早い移動手段を求める社会なのである。近年、鉄道ファンたちは多くの鉄道の(少なくとも彼らにとっての、おそらく多くの人にとっても)楽しみが消えてゆくことに嘆いてきた。西行きブルートレインは全廃された(寝台特急自体は残っているが)。この博物館にも車両が展示されているが、新幹線の食堂車も既に全廃されている。この社会に存した文化は、それらとは相容れなかった、ということなのであろう。
コンセプトにも示されている「鉄道が社会に与えた影響」、或いはその逆の関係と現在や未来に於いて起こる事柄も含んで、「鉄道と社会との関係」を、同じくコンセプトに示され、実際の展示でも強調されている「高速鉄道技術の進歩」に対しメタに位置づけて考察することを来訪者に促すのは、彼らにリニアや新幹線への批判的な意見をもたらしかねない可能性もあり、私企業であるJR東海が運営する博物館にとっては難しいことであろう。しかし、鉄道の利用者であり、何よりもかけがえのない交通インフラとしての鉄道に支えられている社会に生きる私たちは、一度はそういった見方で考えてみるべきでは無かろうか。日本の優れた鉄道技術は、私たちに次々に夢を与え、更にはそれを次々に現実にしてきた。超電導リニアもまた、現実になりつつある巨大な夢である。お年寄りから私たち学生まで、誰もが「想い出」にゆったりと浸れる車両と再会できる、豊富な展示のあるこの博物館で、「夢」についても、ゆっくりと考えを巡らせるのもよいかもしれない。
(早・宇佐美)
2012年11月30日金曜日
不健康な文化と健康な社会
初めて投稿させて頂きます。Xenakis48です。
Xenakisは、ギリシャ出身で主にフランスで活躍した建築家、作曲家のヤニス・クセナキスIannis Xenakisにちなみ、48は、彼の佳曲ST48と某国民的アイドルにかけています。
どういうことを書けばいいのか悩ましいところですが、今回は、前の記事で宇佐美さんが書いてらっしゃる「表現規制」のお話と近しいテーマになりますが、タイトルにもある通り「文化と健康」についてあまり深入りしないように(笑)、簡単に考えてみたいと思います。
2007年、ドイツ北部シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州都キールに置かれた「治療・健康調査センター」のReiner HanewinkelとGudrun Wiborgが、テレビでの喫煙シーンが喫煙率に与える影響を考察した論文„Verbreitung des Rauchens im deutschen Fernsehen“ を発表しました*。彼らによると、調査対象となった2005年当時、ZDFをはじめとしたドイツの主要なテレビ局が放映する番組全体のおよそ45%が1回以上の喫煙シーンを含んでいたそうです。続けて彼らは、喫煙シーンを多く含む映画を見た子どもの喫煙のリスクが高まることを指摘した研究を引き合いに出し、テレビでの喫煙描写に見直しを迫ります**。
日本でも同様の問題については長く議論が行われており、1998年にJTはテレビでの広告を終了しました。しかし日本禁煙学会の調査によれば、現在でもテレビ番組では多くの喫煙シーンが喫煙という行為を否定しない形で登場しており、これが喫煙を正当化させ喫煙開始の誘引になるという影響を与えている、とのことです。また、アメリカでは2007年にディズニーグループを初めとする映画会社が喫煙シーンをすべての映画から排除することを決定しました。
さて、これら規制の動きはどれも「喫煙行為が不健康であること」を根拠にしています。確かに「子ども」を引き合いに出されてしまうとなかなか反論しづらいところがありますが、それでは「不健康な行為」に至らせてしまう可能性のある表現はおよそ規制されるべきなのでしょうか。たとえば、殺人を扱った刑事もののドラマや暴力的な不良が主人公のドラマも、それが「不健康な行為」を誘発するのであれば規制されるのが正当なのでしょうか。確かに、ドイツでのナチスに関する法律のように「それが否定的描写であれば良い」という観点から規制されればそれらの表現がメディアから完全に駆逐されることはないでしょう。ですが、すべての犯罪者が法の裁きを受け更生し、すべての不良が優れた教師の指導の下に社会化されていく物語に満ちた世界、すなわちすべてがハッピーエンドの世界(タバコを吸っている「悪者」は禁煙して「真人間」になるか肺がんでとっとと死ぬ世界)、僕にはなんだか不気味に思えます。
これに対して、禁煙や分煙の推進派を非難する人々は、しばしば「喫煙行為が伝統文化である」と言ってその「敵」を攻撃します。ですが、少なくとも日本に限っていえば喫煙行為が大衆に広がったのはせいぜい100年かそこいらですし、それとて喫煙行為を称揚するような企業による広告や政府による軍人への配給といった「上からの意図」があったことは否めないでしょう。すなわちその(喫煙称揚派が言うところの)「伝統文化」をいまや規制する側に回ろうとしているのがそもそもその「伝統文化」を創出した側であるかもしれないのです。
とはいえこの「文化である」という反論はなかなかインパクトがあるようで、ドイツを初めとしたヨーロッパでは、この論理による反論をしばしば耳にしました。日本の喫煙であればケチも比較的つけやすいのですが(笑)、それが長い歴史をもっていたり、とりわけ宗教などと結びついているとなかなか難しい事態に陥ってしまいます。この難しさは、何も喫煙だけに限りません。
Josh Adamsの研究によれば、アメリカのメディアにTatoo(入れ墨),Piercing(ピアス),Body Modification(身体改造)といった単語が取り上げられる場合、80%以上の確立でネガティヴな表現が続くようです。それらは大抵「社会問題、病気、貧困、犯罪、暴力」といったものだそうです。ですが、冒頭の単語の前に「~族の」や「~教の」といった形容詞がついた場合、ネガティヴとポジティヴの比率が逆転、すなわち80%以上の確立で「興味深い、独特、歴史」といった表現が続きます。換言すれば、入れ墨やピアスはアメリカのメディアにおいては否定的なものですが、それが「文化」とつながる場合には肯定的なものへと転じるのです。
ですが、それらの「文化」は決して「健康的」ではありません。たとえば、アメリカで有名な俳優兼プロレスラーのザ・ロックことドゥエイン・ジョンソンの祖父ピーター・メイビアは、往年の名レスラーですが、自らの出身であるサモア族伝統の入れ墨を入れたことが原因で悪性の血液腫瘍を発症し早世します***。
このような危険を伴った「不健康な行為」も「文化」であれば、なかなか批判されづらい傾向にあるようです。もちろんアフリカ諸国の女児への性器割礼やアボリジニの男児への尿道割礼などには批判的な目も向けられていますが、一方でそれらへの介入が「文化を破壊してしまう」という声も少なくありません。
さて、だいぶ話が錯綜してまいりましたが(笑)、マーラーよろしく「喜びに満ちて緑の森を緩歩」しましたので、夜の帳が下りる前に森を抜けましょう。
僕のギモンは以下の2つです。
1.健康を理由にした規制はどの程度まで正当化できるのだろうか。
2.文化と健康の絡み合いに如何に関わっていけばいいのだろうか。
みなさまからご意見賜ることが出来れば幸いです。
*この論文を読んだとき最初に頭をよぎったのは、ドイツではある時間以降になると、有料ではないごく普通のチャンネルでポルノを放送する、ということでした。日本では到底考えられないことだったのでドイツ人の友人に尋ねたところ「この時間になれば子どもは寝ているから問題ないさ。それにもし見たとしても、あんまりハードなのはやってないから大丈夫だよ!」と言って笑っていました。一方でドイツ版の『クレヨンしんちゃん』ではしんちゃんの「ゾウさん」にモザイクがかけられていました(僕には逆に性的に思われたのですが・・・)。
もし日本の非有料放送がポルノを放映したらそれこそ大問題になるでしょう。ですが、しんちゃんの「ゾウさん」は確かに「下品である」という非難こそあれ、モザイクをかけるべきだ、と言った議論は聞いたことがありません。
**ドイツは、ナチスの反タバコ政策への反省があるのか、ヨーロッパのその他の国々と比べ喫煙に関しては比較的寛容な印象があります。街のいたるところに灰皿がありますし、レストランも分煙化された、とはいえオープン席ではごく普通にタバコを吸うことが出来ます。また、価格自体も他のヨーロッパ諸国と比べると割合安いです。
***孫のドゥエイン・ジョンソンもサモア式の入れ墨を入れていますが、近年は入れ墨も技術が上がってきており、そこまでの危険性は伴わなくなってきました。しかし、進歩する社会の反対物として描かれがちな入れ墨やピアスといったものが、その進歩する技術の恩恵を受けて以前より「安全」かつ「望んだ通り」に行われるのって、なんだか非常に弁証法的で面白いですね。
日本でも入れ墨や身体改造の愛好家たちが「自分たちは反社会的な存在ではない」ことをアピールして理解を(差別や奇異の目で見ることをやめるように)求めていますが、これって、「反社会的存在」としての主体化するために入れ墨をいれたり指を詰めたりしたアウトローの人たちにとってはエライ迷惑でしょうね。まあアウトローがわれわれにとっては迷惑なわけですが。
(Xenakis48)
Xenakisは、ギリシャ出身で主にフランスで活躍した建築家、作曲家のヤニス・クセナキスIannis Xenakisにちなみ、48は、彼の佳曲ST48と某国民的アイドルにかけています。
どういうことを書けばいいのか悩ましいところですが、今回は、前の記事で宇佐美さんが書いてらっしゃる「表現規制」のお話と近しいテーマになりますが、タイトルにもある通り「文化と健康」についてあまり深入りしないように(笑)、簡単に考えてみたいと思います。
2007年、ドイツ北部シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州都キールに置かれた「治療・健康調査センター」のReiner HanewinkelとGudrun Wiborgが、テレビでの喫煙シーンが喫煙率に与える影響を考察した論文„Verbreitung des Rauchens im deutschen Fernsehen“ を発表しました*。彼らによると、調査対象となった2005年当時、ZDFをはじめとしたドイツの主要なテレビ局が放映する番組全体のおよそ45%が1回以上の喫煙シーンを含んでいたそうです。続けて彼らは、喫煙シーンを多く含む映画を見た子どもの喫煙のリスクが高まることを指摘した研究を引き合いに出し、テレビでの喫煙描写に見直しを迫ります**。
日本でも同様の問題については長く議論が行われており、1998年にJTはテレビでの広告を終了しました。しかし日本禁煙学会の調査によれば、現在でもテレビ番組では多くの喫煙シーンが喫煙という行為を否定しない形で登場しており、これが喫煙を正当化させ喫煙開始の誘引になるという影響を与えている、とのことです。また、アメリカでは2007年にディズニーグループを初めとする映画会社が喫煙シーンをすべての映画から排除することを決定しました。
さて、これら規制の動きはどれも「喫煙行為が不健康であること」を根拠にしています。確かに「子ども」を引き合いに出されてしまうとなかなか反論しづらいところがありますが、それでは「不健康な行為」に至らせてしまう可能性のある表現はおよそ規制されるべきなのでしょうか。たとえば、殺人を扱った刑事もののドラマや暴力的な不良が主人公のドラマも、それが「不健康な行為」を誘発するのであれば規制されるのが正当なのでしょうか。確かに、ドイツでのナチスに関する法律のように「それが否定的描写であれば良い」という観点から規制されればそれらの表現がメディアから完全に駆逐されることはないでしょう。ですが、すべての犯罪者が法の裁きを受け更生し、すべての不良が優れた教師の指導の下に社会化されていく物語に満ちた世界、すなわちすべてがハッピーエンドの世界(タバコを吸っている「悪者」は禁煙して「真人間」になるか肺がんでとっとと死ぬ世界)、僕にはなんだか不気味に思えます。
これに対して、禁煙や分煙の推進派を非難する人々は、しばしば「喫煙行為が伝統文化である」と言ってその「敵」を攻撃します。ですが、少なくとも日本に限っていえば喫煙行為が大衆に広がったのはせいぜい100年かそこいらですし、それとて喫煙行為を称揚するような企業による広告や政府による軍人への配給といった「上からの意図」があったことは否めないでしょう。すなわちその(喫煙称揚派が言うところの)「伝統文化」をいまや規制する側に回ろうとしているのがそもそもその「伝統文化」を創出した側であるかもしれないのです。
とはいえこの「文化である」という反論はなかなかインパクトがあるようで、ドイツを初めとしたヨーロッパでは、この論理による反論をしばしば耳にしました。日本の喫煙であればケチも比較的つけやすいのですが(笑)、それが長い歴史をもっていたり、とりわけ宗教などと結びついているとなかなか難しい事態に陥ってしまいます。この難しさは、何も喫煙だけに限りません。
Josh Adamsの研究によれば、アメリカのメディアにTatoo(入れ墨),Piercing(ピアス),Body Modification(身体改造)といった単語が取り上げられる場合、80%以上の確立でネガティヴな表現が続くようです。それらは大抵「社会問題、病気、貧困、犯罪、暴力」といったものだそうです。ですが、冒頭の単語の前に「~族の」や「~教の」といった形容詞がついた場合、ネガティヴとポジティヴの比率が逆転、すなわち80%以上の確立で「興味深い、独特、歴史」といった表現が続きます。換言すれば、入れ墨やピアスはアメリカのメディアにおいては否定的なものですが、それが「文化」とつながる場合には肯定的なものへと転じるのです。
ですが、それらの「文化」は決して「健康的」ではありません。たとえば、アメリカで有名な俳優兼プロレスラーのザ・ロックことドゥエイン・ジョンソンの祖父ピーター・メイビアは、往年の名レスラーですが、自らの出身であるサモア族伝統の入れ墨を入れたことが原因で悪性の血液腫瘍を発症し早世します***。
このような危険を伴った「不健康な行為」も「文化」であれば、なかなか批判されづらい傾向にあるようです。もちろんアフリカ諸国の女児への性器割礼やアボリジニの男児への尿道割礼などには批判的な目も向けられていますが、一方でそれらへの介入が「文化を破壊してしまう」という声も少なくありません。
さて、だいぶ話が錯綜してまいりましたが(笑)、マーラーよろしく「喜びに満ちて緑の森を緩歩」しましたので、夜の帳が下りる前に森を抜けましょう。
僕のギモンは以下の2つです。
1.健康を理由にした規制はどの程度まで正当化できるのだろうか。
2.文化と健康の絡み合いに如何に関わっていけばいいのだろうか。
みなさまからご意見賜ることが出来れば幸いです。
*この論文を読んだとき最初に頭をよぎったのは、ドイツではある時間以降になると、有料ではないごく普通のチャンネルでポルノを放送する、ということでした。日本では到底考えられないことだったのでドイツ人の友人に尋ねたところ「この時間になれば子どもは寝ているから問題ないさ。それにもし見たとしても、あんまりハードなのはやってないから大丈夫だよ!」と言って笑っていました。一方でドイツ版の『クレヨンしんちゃん』ではしんちゃんの「ゾウさん」にモザイクがかけられていました(僕には逆に性的に思われたのですが・・・)。
もし日本の非有料放送がポルノを放映したらそれこそ大問題になるでしょう。ですが、しんちゃんの「ゾウさん」は確かに「下品である」という非難こそあれ、モザイクをかけるべきだ、と言った議論は聞いたことがありません。
**ドイツは、ナチスの反タバコ政策への反省があるのか、ヨーロッパのその他の国々と比べ喫煙に関しては比較的寛容な印象があります。街のいたるところに灰皿がありますし、レストランも分煙化された、とはいえオープン席ではごく普通にタバコを吸うことが出来ます。また、価格自体も他のヨーロッパ諸国と比べると割合安いです。
***孫のドゥエイン・ジョンソンもサモア式の入れ墨を入れていますが、近年は入れ墨も技術が上がってきており、そこまでの危険性は伴わなくなってきました。しかし、進歩する社会の反対物として描かれがちな入れ墨やピアスといったものが、その進歩する技術の恩恵を受けて以前より「安全」かつ「望んだ通り」に行われるのって、なんだか非常に弁証法的で面白いですね。
日本でも入れ墨や身体改造の愛好家たちが「自分たちは反社会的な存在ではない」ことをアピールして理解を(差別や奇異の目で見ることをやめるように)求めていますが、これって、「反社会的存在」としての主体化するために入れ墨をいれたり指を詰めたりしたアウトローの人たちにとってはエライ迷惑でしょうね。まあアウトローがわれわれにとっては迷惑なわけですが。
(Xenakis48)
2012年11月21日水曜日
『ふがいない僕は空を見た』のレーティングに関して
11月17日(土)より公開されているタナダユキ監督作品『ふがいない僕は空を見た』*を鑑賞した。新聞各紙の映画評にも取り上げられているように、邦画の中では本年度有数の傑作である。
(以下に於いてストーリーへの言及があることを予めご了承いただきたい。)この映画は、不倫関係にある男子高校生と専業主婦を主人公にした、人が生きているということのかけがえのなさを印象付ける作品である。高校生の母親は助産師であり、その仕事ぶりと、吐露する想いからは、人が生まれ生きているということそのこと自体への無条件の肯定を感じさせ、また主婦は姑からの強い初孫の期待を受けながら、苦痛を伴う不妊治療を受けている。人が生まれること、生きることに在る価値を、想起させる作品である。
一方で、これは私が特にこの場でこの映画を取り上げる意味にも関わるが、作中における2人の主人公の不倫関係は、ある時点までひたすらにセックスで描写される。主婦はアニメのコスプレを趣味としており、映画の冒頭は2人のコスプレでの行為である。そして2人のセックスは、その本源的な目的であるはずの生殖とは関わらないものであり、不妊治療からの逃避であったり、性欲を満たすためであったり、後にはただ愛し合うが故のものであったりする。そしてそれが、上述の、人間が生まれること生きることそれ自体と切り離されてしまっているところが、登場人物たちが生きる上で、どうにもならない切なさとして感じられる。
様々な困難や苦痛にぶつかりながら人が生きていくということを描いた作品であり、私は友人にも勧めたいと思いながら劇場を後にした。高校生を主人公とし、その友人も重要な登場人物であり、学校の様子を描写することから、高校生であってもこの映画から考えることは多いであろう。しかしながら、この作品をわざわざ文化政策の講義と関連付けられたこの場で話題にしたいのには、理由がある。それは、この作品が、日本のレーティングでは最も厳しいR18+の指定を受けているからである。かなり長く露出の多いセックスシーンがある為に指定を受けることは仕方のないこととも思えるが、一方で高校生を主人公とし、高校を舞台の一つとして展開される含意の多い物語でありながら、高校生の年齢にあたる人々の鑑賞を阻んでいることは、非常に勿体のないことであるように私は考えている。
ホームページによると、映倫(映像倫理委員会:映画関係者の自主的な団体であるが、実際には規制や司法判断に対しての自主規制の役割を担うと考えられる)は「表現の自由を護り、青少年の健全な育成を目的」**としている。この映画における性的描写もまた、18歳未満の人々が観ると彼らの「健全な育成」の障害となるものとの審判であろう。しかしながら一方で、上に長々と私が映画に関して素人の立場から論評を試みたように、この作品のテーマは、人間が生まれること生きることそのものに関わっており、高校生が鑑賞してもそれに関してより思索を深められそうなものであり、性的なシーンもまた、上にも言及したように、登場人物たちの生き方を考える上での重要な描写である。この映画を高校生に見せるために、監督に性的なシーンを削った上で完成品として世に出すことを提案したら、それは却下されるであろうし、私もそのような改変が望ましいものとは思わない。更に言えば、そもそもこの作品に於いて高校生がセックスに関わることは、決して非現実的な描写ではなく、それが現実にも起こり得ることだからこそ、ここで描かれていると想像できる。であるとするならば、性的表現を取り上げての年齢制限が実際に「青少年の健全な育成」に寄与することができるかは疑わしい。そうでなくとも、少なくとも彼らが近い将来に於いて直面する問題に対して、何らかの含意があると考えることもできるのではなかろうか。
私はこの映画を全年齢に開放すべきだと訴えかける積りはないし、性的な描写を含む全映画を高校生に開放せよと訴えている積りも全くない。ただ、私自身が大変感動し、多くの人に薦めたいと思った映画に対し、その中の表現を巡って年齢制限がかけられており、そしてその表現が、作品の重要な意味を与えているものであると考えた為、ここで問題を提起したものである。この映画に年齢制限をかけることは、健全な「青少年」の育成の為かもしれないが、それは、その育成の対象となる人々の、人生に関する思索の機会を奪っている点で、少し勿体ないと、私は思うのである。
*2012、日本映画。テアトル新宿他で公開中。劇場公開版はR18+指定。二次市場向けの再編集版ではR15+指定を受けた。
**映倫ホームページ。http://eirin.jp/。2012年11月21日参照。
(早・宇佐美)
(以下に於いてストーリーへの言及があることを予めご了承いただきたい。)この映画は、不倫関係にある男子高校生と専業主婦を主人公にした、人が生きているということのかけがえのなさを印象付ける作品である。高校生の母親は助産師であり、その仕事ぶりと、吐露する想いからは、人が生まれ生きているということそのこと自体への無条件の肯定を感じさせ、また主婦は姑からの強い初孫の期待を受けながら、苦痛を伴う不妊治療を受けている。人が生まれること、生きることに在る価値を、想起させる作品である。
一方で、これは私が特にこの場でこの映画を取り上げる意味にも関わるが、作中における2人の主人公の不倫関係は、ある時点までひたすらにセックスで描写される。主婦はアニメのコスプレを趣味としており、映画の冒頭は2人のコスプレでの行為である。そして2人のセックスは、その本源的な目的であるはずの生殖とは関わらないものであり、不妊治療からの逃避であったり、性欲を満たすためであったり、後にはただ愛し合うが故のものであったりする。そしてそれが、上述の、人間が生まれること生きることそれ自体と切り離されてしまっているところが、登場人物たちが生きる上で、どうにもならない切なさとして感じられる。
様々な困難や苦痛にぶつかりながら人が生きていくということを描いた作品であり、私は友人にも勧めたいと思いながら劇場を後にした。高校生を主人公とし、その友人も重要な登場人物であり、学校の様子を描写することから、高校生であってもこの映画から考えることは多いであろう。しかしながら、この作品をわざわざ文化政策の講義と関連付けられたこの場で話題にしたいのには、理由がある。それは、この作品が、日本のレーティングでは最も厳しいR18+の指定を受けているからである。かなり長く露出の多いセックスシーンがある為に指定を受けることは仕方のないこととも思えるが、一方で高校生を主人公とし、高校を舞台の一つとして展開される含意の多い物語でありながら、高校生の年齢にあたる人々の鑑賞を阻んでいることは、非常に勿体のないことであるように私は考えている。
ホームページによると、映倫(映像倫理委員会:映画関係者の自主的な団体であるが、実際には規制や司法判断に対しての自主規制の役割を担うと考えられる)は「表現の自由を護り、青少年の健全な育成を目的」**としている。この映画における性的描写もまた、18歳未満の人々が観ると彼らの「健全な育成」の障害となるものとの審判であろう。しかしながら一方で、上に長々と私が映画に関して素人の立場から論評を試みたように、この作品のテーマは、人間が生まれること生きることそのものに関わっており、高校生が鑑賞してもそれに関してより思索を深められそうなものであり、性的なシーンもまた、上にも言及したように、登場人物たちの生き方を考える上での重要な描写である。この映画を高校生に見せるために、監督に性的なシーンを削った上で完成品として世に出すことを提案したら、それは却下されるであろうし、私もそのような改変が望ましいものとは思わない。更に言えば、そもそもこの作品に於いて高校生がセックスに関わることは、決して非現実的な描写ではなく、それが現実にも起こり得ることだからこそ、ここで描かれていると想像できる。であるとするならば、性的表現を取り上げての年齢制限が実際に「青少年の健全な育成」に寄与することができるかは疑わしい。そうでなくとも、少なくとも彼らが近い将来に於いて直面する問題に対して、何らかの含意があると考えることもできるのではなかろうか。
私はこの映画を全年齢に開放すべきだと訴えかける積りはないし、性的な描写を含む全映画を高校生に開放せよと訴えている積りも全くない。ただ、私自身が大変感動し、多くの人に薦めたいと思った映画に対し、その中の表現を巡って年齢制限がかけられており、そしてその表現が、作品の重要な意味を与えているものであると考えた為、ここで問題を提起したものである。この映画に年齢制限をかけることは、健全な「青少年」の育成の為かもしれないが、それは、その育成の対象となる人々の、人生に関する思索の機会を奪っている点で、少し勿体ないと、私は思うのである。
*2012、日本映画。テアトル新宿他で公開中。劇場公開版はR18+指定。二次市場向けの再編集版ではR15+指定を受けた。
**映倫ホームページ。http://eirin.jp/。2012年11月21日参照。
(早・宇佐美)
2012年11月16日金曜日
God Save the Queen
みなさまこんにちは。はじめて投稿させていただきます。早稲田大学大学院政治学科政治思想領域博士課程のsararaと申します。
小林真理先生の「文化政策」の授業を毎週とても楽しみに受講しています。先生の講義内容は、領域は異なるのですが私自身の従来の興味関心と重なる部分も多く、いつも刺激をいただいています。
文化政策が、フランス革命以降の芸術の民主主義化、とりわけ「民衆のための劇場」の構想にまで遡るというお話は特に興味深いです。大衆は国家の思惑からある種の官製文化を押し付けられているわけですが、それをしたたかに換骨奪胎して真の大衆の芸術に仕立て上げたというケースもあるのではないでしょうか。こんなことを考えたのは、文部省唱歌を分析した渡辺裕『歌う国民 唱歌、校歌、うたごえ』(中公新書)を読んだからなのですが。
ところで、歌う国民ということで言えば、1970年代に英国のふたつのロックバンドQueenとSex Pistolsが、ほぼ同時期に、God Save the Queen という曲をリリースしていることはよく知られています。クィーンのほうは正真正銘のイギリス国歌を最高傑作といわれるアルバム『オペラ座の夜』のフィナーレとして演奏しているのですが、ピストルズのほうはパンクロックの真骨頂という曲と王室やエリザベス女王を侮辱していると言われる歌詞とで物議をかもした代物です。ちなみに冒頭の歌詞はこんな感じです。
God save the Queen, her Fascist regime
It made you a moron, potential H-bomb
God save the Queen, she ain't no human being
There is no future, in England’s dreaming
今年、そのピストルズのGod Save the Queenがロンドン・オリンピックの開会式の音楽にイントロと最初のフレーズだけカットインする形でリミックスされていたことで、再び話題になりました。プロデューサー(『トレインスポッティング』の監督ダニー・ボイル)の遊び心もしくは何らかの意図の表れだったのでしょうが、エリザベス女王その人もいらっしゃる会場でいわくつきのパンク版国歌を流すとは。
パンクロックが英国文化の一部であることを印象づけた出来事でした。ボイルの冒険心に私は感銘を受けましたが、反抗的でオルターナティブな文化をも呑み込み同一化して英国文化という財を拡大させ、国家の活性化に利用しようというしたたかな文化政策なのかもしれないとも感じました。
ちなみにamazon.co.jpでは7インチ・アナログが8000円くらいで売っているようです。
http://www.amazon.co.jp/God-Save-Queen-inch-Analog/dp/B000UR1GV0
(早・sarara)
小林真理先生の「文化政策」の授業を毎週とても楽しみに受講しています。先生の講義内容は、領域は異なるのですが私自身の従来の興味関心と重なる部分も多く、いつも刺激をいただいています。
文化政策が、フランス革命以降の芸術の民主主義化、とりわけ「民衆のための劇場」の構想にまで遡るというお話は特に興味深いです。大衆は国家の思惑からある種の官製文化を押し付けられているわけですが、それをしたたかに換骨奪胎して真の大衆の芸術に仕立て上げたというケースもあるのではないでしょうか。こんなことを考えたのは、文部省唱歌を分析した渡辺裕『歌う国民 唱歌、校歌、うたごえ』(中公新書)を読んだからなのですが。
ところで、歌う国民ということで言えば、1970年代に英国のふたつのロックバンドQueenとSex Pistolsが、ほぼ同時期に、God Save the Queen という曲をリリースしていることはよく知られています。クィーンのほうは正真正銘のイギリス国歌を最高傑作といわれるアルバム『オペラ座の夜』のフィナーレとして演奏しているのですが、ピストルズのほうはパンクロックの真骨頂という曲と王室やエリザベス女王を侮辱していると言われる歌詞とで物議をかもした代物です。ちなみに冒頭の歌詞はこんな感じです。
God save the Queen, her Fascist regime
It made you a moron, potential H-bomb
God save the Queen, she ain't no human being
There is no future, in England’s dreaming
今年、そのピストルズのGod Save the Queenがロンドン・オリンピックの開会式の音楽にイントロと最初のフレーズだけカットインする形でリミックスされていたことで、再び話題になりました。プロデューサー(『トレインスポッティング』の監督ダニー・ボイル)の遊び心もしくは何らかの意図の表れだったのでしょうが、エリザベス女王その人もいらっしゃる会場でいわくつきのパンク版国歌を流すとは。
パンクロックが英国文化の一部であることを印象づけた出来事でした。ボイルの冒険心に私は感銘を受けましたが、反抗的でオルターナティブな文化をも呑み込み同一化して英国文化という財を拡大させ、国家の活性化に利用しようというしたたかな文化政策なのかもしれないとも感じました。
ちなみにamazon.co.jpでは7インチ・アナログが8000円くらいで売っているようです。
http://www.amazon.co.jp/God-Save-Queen-inch-Analog/dp/B000UR1GV0
(早・sarara)
2012年9月13日木曜日
みなさま
こんにちは。
芸大のkalingaこと畑まりあと申します。
まだ暑い日が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか。
このブログにて、「野点in大槌」開催のご案内をさせてください。
岩手県の大槌町といえば、3.11による被災の状況がメディアで数多く取り上げられたので、
みなさんの中でも、大槌という町の名前をよく聞いたことがあるという方もいらっしゃると思います。
今年の2月から企画の開催が決定し、現在に至るまで、地元の人をすこしずつ巻き込みながら、準備してきました。
東京からはやはり遠いですが、もし関心がありましたら是非いらしてください。
質問などありましたら、お気軽に畑までご連絡ください。
marianflowers@hotmail.com
以下、案内文です。
よろしくお願いいたします。
***************************************************
きむらとしろうじんじん「野点」この秋、大槌にて開催!
お茶碗に絵付けをしたり、お茶を飲みながらおしゃべりしたり。
地域の方によるカフェや湧水ツアーなど、お楽しみ企画も乞うご期待。
いろとりどりのお茶碗に囲まれながら、大槌の魅力を味わいに来ませんか?
きむらとしろうじんじんの「野点(のだて)」とは?----------------
陶芸+お抹茶屋台です。素焼きのお茶碗をひとつ選び絵付けをし、
樂焼き(らくやき)という方法で焼き上げられた自作のお茶碗で
お茶をお楽しみいただけます。
----------------------------------------------------------------------------------------
【開催概要】
日程・場所・テーマ:9月29日(土)常楽院(大槌町赤浜1)
「ひょうたん島を、語りたい。〜海を眺めながら〜」
10月3日(水)桜木町児童公園(大槌町桜木桜木町西側突き当り)
「桜木町で、逢いましょう。〜公園カフェ〜」
10月7日(日)大槌駅前広場(大槌町本町1-1)
「駅から湧水、徒歩5分。〜カフェや音楽やパフォーマンス〜」
開催場所地図:http://goo.gl/maps/Q2zUe
※全日雨天決行です。ただし、荒天の場合は、場所を変更したり・中止する場合がありますので当日お問い合わせ下さい。
開催時間:11時頃から日暮れまで
お茶碗絵付:1個 1500円
お抹茶:1杯 300円
※お茶碗をつくる場合の所要時間は、約40分以上です。
※1日につき35個限定なので、売り切れの場合はお許し下さい。
【大槌(釜石)までのアクセス】
◉JR東北新幹線 新花巻駅、または東北本線花巻駅乗り換え 釜石線で釜石駅下車。
◉夜行高速バス
[遠野・釜石号](岩手県交通)
東京(池袋・秋葉原・上野)発、大槌バイパス着
国際興業バスHP:http://5931bus.com/kosoku/tono-kesen.html
【釜石駅から開催場所までのアクセス】
岩手県交通バス 赤浜・波板線にて大槌方面へ。
◆常楽院
釜石駅前乗車(岩手県交通バス)―赤浜で降車。
赤浜停留所より徒歩。
◆桜木町児童公園
釜石駅前乗車(岩手県交通バス)―マスト前で降車。
マスト前(大槌町民バス)―桜木町公園前で降車。
桜木町公園前停留所より徒歩。
◆常楽院
釜石駅前乗車(岩手県交通バス)―中央公民館入口で降車。
中央公民館入口停留所より徒歩。
岩手県交通バス 赤浜・浪板線 時刻表
http://www.iwatekenkotsu.co.jp/rosen-jikoku/morioka/110314pdf/engann/20120401/kamaishi-yamada(20120401).pdf
大槌町民バス時刻表
http://www.town.otsuchi.iwate.jp/docs/2012020100026/
※バスの本数が少ないため、事前にご確認下さい。
☆高速バスでお越しの際は、<大槌バイパス停留所>より<マスト前停留所>まで徒歩で移動可能です。
<マスト前停留所>から岩手県交通バス・大槌町民バスをご利用いただけます。
☆上記の他、釜石駅前にてレンタカーのご利用をお薦めいたします。
【お問い合わせ先】
ひょっこりひょうたん塾 事務局
〒028-1131 岩手県上閉伊郡大槌町大槌24-24-2
Email:hyotanjuku@gmail.com
Tel:090-6229-4621 HP:http://hyotanjuku.jimdo.com/
主催:ひょっこりひょうたん塾、大槌町、東京都、東京文化発信プロジェクト室(公益財団法人東京都歴史文化財団)、
特定非営利活動法人いわて連携復興センター
協力:一般社団法人谷中のおかって、東京藝術大学熊倉研究室
※ 本事業は Art Support Tohoku-Tokyo(東京都による芸術文化を活用した被災地支援事業)です。
※平成24年度科学研究費基盤(A)(1)「社会システム<芸術>とその変容」補助事業
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(芸・kalinga)
こんにちは。
芸大のkalingaこと畑まりあと申します。
まだ暑い日が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか。
このブログにて、「野点in大槌」開催のご案内をさせてください。
岩手県の大槌町といえば、3.11による被災の状況がメディアで数多く取り上げられたので、
みなさんの中でも、大槌という町の名前をよく聞いたことがあるという方もいらっしゃると思います。
今年の2月から企画の開催が決定し、現在に至るまで、地元の人をすこしずつ巻き込みながら、準備してきました。
東京からはやはり遠いですが、もし関心がありましたら是非いらしてください。
質問などありましたら、お気軽に畑までご連絡ください。
marianflowers@hotmail.com
以下、案内文です。
よろしくお願いいたします。
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きむらとしろうじんじん「野点」この秋、大槌にて開催!
お茶碗に絵付けをしたり、お茶を飲みながらおしゃべりしたり。
地域の方によるカフェや湧水ツアーなど、お楽しみ企画も乞うご期待。
いろとりどりのお茶碗に囲まれながら、大槌の魅力を味わいに来ませんか?
きむらとしろうじんじんの「野点(のだて)」とは?----------------
陶芸+お抹茶屋台です。素焼きのお茶碗をひとつ選び絵付けをし、
樂焼き(らくやき)という方法で焼き上げられた自作のお茶碗で
お茶をお楽しみいただけます。
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【開催概要】
日程・場所・テーマ:9月29日(土)常楽院(大槌町赤浜1)
「ひょうたん島を、語りたい。〜海を眺めながら〜」
10月3日(水)桜木町児童公園(大槌町桜木桜木町西側突き当り)
「桜木町で、逢いましょう。〜公園カフェ〜」
10月7日(日)大槌駅前広場(大槌町本町1-1)
「駅から湧水、徒歩5分。〜カフェや音楽やパフォーマンス〜」
開催場所地図:http://goo.gl/maps/Q2zUe
※全日雨天決行です。ただし、荒天の場合は、場所を変更したり・中止する場合がありますので当日お問い合わせ下さい。
開催時間:11時頃から日暮れまで
お茶碗絵付:1個 1500円
お抹茶:1杯 300円
※お茶碗をつくる場合の所要時間は、約40分以上です。
※1日につき35個限定なので、売り切れの場合はお許し下さい。
【大槌(釜石)までのアクセス】
◉JR東北新幹線 新花巻駅、または東北本線花巻駅乗り換え 釜石線で釜石駅下車。
◉夜行高速バス
[遠野・釜石号](岩手県交通)
東京(池袋・秋葉原・上野)発、大槌バイパス着
国際興業バスHP:http://5931bus.com/kosoku/tono-kesen.html
【釜石駅から開催場所までのアクセス】
岩手県交通バス 赤浜・波板線にて大槌方面へ。
◆常楽院
釜石駅前乗車(岩手県交通バス)―赤浜で降車。
赤浜停留所より徒歩。
◆桜木町児童公園
釜石駅前乗車(岩手県交通バス)―マスト前で降車。
マスト前(大槌町民バス)―桜木町公園前で降車。
桜木町公園前停留所より徒歩。
◆常楽院
釜石駅前乗車(岩手県交通バス)―中央公民館入口で降車。
中央公民館入口停留所より徒歩。
岩手県交通バス 赤浜・浪板線 時刻表
http://www.iwatekenkotsu.co.jp/rosen-jikoku/morioka/110314pdf/engann/20120401/kamaishi-yamada(20120401).pdf
大槌町民バス時刻表
http://www.town.otsuchi.iwate.jp/docs/2012020100026/
※バスの本数が少ないため、事前にご確認下さい。
☆高速バスでお越しの際は、<大槌バイパス停留所>より<マスト前停留所>まで徒歩で移動可能です。
<マスト前停留所>から岩手県交通バス・大槌町民バスをご利用いただけます。
☆上記の他、釜石駅前にてレンタカーのご利用をお薦めいたします。
【お問い合わせ先】
ひょっこりひょうたん塾 事務局
〒028-1131 岩手県上閉伊郡大槌町大槌24-24-2
Email:hyotanjuku@gmail.com
Tel:090-6229-4621 HP:http://hyotanjuku.jimdo.com/
主催:ひょっこりひょうたん塾、大槌町、東京都、東京文化発信プロジェクト室(公益財団法人東京都歴史文化財団)、
特定非営利活動法人いわて連携復興センター
協力:一般社団法人谷中のおかって、東京藝術大学熊倉研究室
※ 本事業は Art Support Tohoku-Tokyo(東京都による芸術文化を活用した被災地支援事業)です。
※平成24年度科学研究費基盤(A)(1)「社会システム<芸術>とその変容」補助事業
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(芸・kalinga)
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