2012年6月17日日曜日

批評するということ。批評家の役割。


みなさんは批評ということや批評家の役割について考えたことはありますか?
どういったときに批評を読みますか?

批評は、全くわからない分野に関しては「興味があるけど何を観に行こう、何がいいのだろう」という疑問に対してある程度指針を与えてくれますし、観に行ってわからなかったことや見方がわからなかったものについては「こういう見方ができるのか」と視野を広げてくれる役割もあると思います。

と、ちょっとポジティブなことを言いましたが、わたしはつい最近、ある批評家に憤りを感じて、それがきっかけで考えたことや気づいたことについてお話ししたいと思います。

わたしは舞踊学専攻なのも関係して、主にバレエが中心ですが、公演をよく観に行っています。もちろんバレエが好きで観に行っているというのもありますが、日本や世界でバレエがどのような傾向にあるのか、このカンパニー、この国はこういう色がある、といったようなことを知るために舞台を観にでかけています。

日本のバレエ団の公演もツアーで来日する海外バレエ団も観に行くのですが、それだけではカバーしきれないので、海外の批評文を読んだり、バレエやダンスの批評家のツイッターをフォローしたりしています。

さて、わたしはオーストラリアとNYに留学していたことがあり、わたしにとってはどちらもホームです。そんなホームの1つのオーストラリアのAustralian Balletと先住民アボリジニの伝統の流れをくんだBangarra Dance Theatreが協同で、わたしのもうひとつのホームであるNYのツアーを組み、リンカーン・センターで踊るというではありませんか!(ちなみにちょうど今やっています) Bangarraはいつも独特の雰囲気で毎回魅了されていましたし、「ものすごく観に行きたいのに行けないー!」と悶々としていました。

初日が終わって、その日の批評がNew York Timesに出たので、どんなパフォーマンスだったんだろうとわくわくしながら読んだのですが、ダンサーやパフォーマンスについてはほとんど触れられておらず、どのような作品が上演されたかということがメインに書かれていたので、わたしはとってもがっかりしてしまいました。

批評家がそのパフォーマンスで気に入ることが何もなかった、もしくは書くに値しないと思ったから、あえて作品についてだけ書いたという可能性ももちろんあります(だったらそう書けばいいじゃないと思うけど、そうしないところがかなりスノビッシュ)。また、その作品はMcGregorという人気の現代振付家によってAustralian Balletに振付けられたものですから、他ではなかなか見ることのできないものであり、それに重点がおかれたということも考えられます。それでも、普段NYでは見ることができないカンパニーの特色に触れずに、作品論に走るというのはどうなんだろう、と思ってしまいました。

これを書いたのは、The TimesやNew York Timesのような超大手の新聞社でバレエの批評を書いてきたとても有名な批評家です。また読者も教養があるような人が多いでしょうし、Arts面でバレエ公演の批評を読むような人は詳しい人も少なくないと思います。

それでも一般的に考えて、作品論よりも、どういう雰囲気だった、どのダンサーが光っていた、どこがどうよかった・悪かったというような情報をわたしたちは批評に求めているのじゃないのでしょうか。


批評家はそこの街や地域で起きている芸術がどういうものであるかを紹介し、また評価していくことが仕事だとわたしは考えています。そうやって芸術家はフィードバックを得て成長できる面もあるわけですし。しかし、今回のような普段みることができないようなパフォーマンスの場合には、もっと紹介に重きをおいてもいいのではないか、と思いました。

日本の批評文で批判的な内容をみることはなかなかないので、こういったことを感じることもないかもしれません。もちろん批判的なことも遠慮せずに書かれるべきだし、いいと思ったらそれを伝えるべきだと思います。ただ、専門的すぎる視点でなく、いろいろな分野の人が読んでも理解できるように書かれるべきだと考えています。というのも、批評家はアーティスト側とそれを鑑賞する側をつなげる役割を果たす大きな要素のひとつで、芸術振興にもつながってくるものです。

きっと一学生であるわたしがわからない、大きくて複雑な世界がそこにもあるのだろうとは思いますが、納得いきませんでした。


同じようなことを感じたことがある方、批評はこうあるべきだと思う、わたしの意識があまいなどなど、ご意見交換できれば面白いかなと思ってこのことについて書いてみました。



わたしが期待していたものと違った点にで過剰に反応してる部分も少なからずあるとは思いますが、問題の批評文のリンクを載せておきます。
http://www.nytimes.com/2012/06/14/arts/dance/australian-ballet-at-the-koch-theater.html


(茶・chichi)

8 件のコメント:

  1. 批評については、私はいつも満足できません。
    批評とは何のために必要なのかと思うときがあります。ただ、以前勤めていた大学で、著名な演劇評論家の先生とご一緒させていただいていましたが、その方は、演劇の楽しさや良さを知ってもらいたくて批評をしていたとおっしゃっていました。そうはいっても、一回性の時間芸術の場合は、難しいですね。
    (M.K)

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  2. Chichiさんのご意見に深く同感しました。
    芸大のヒョウと言いますが、自分の意見を少し書かせていただきます。

    批評の役割は
    1. アーティスト及び作品に対するフィードバック
    2. 作品をまだ見ていない観客への情報提供
    3. (主に作品を見た人の為の)文脈や背景等を含める深い分析
    などがあるかと思います。

    1については批評の歴史を考える必要があると思います。
    結論から言いますと、現在の批評家には作品そのものに対して述べる勇気がないでしょう。それは批評家よりアーティストの方が正しいということを歴史が証明したからだと思います。ジャンルによってその時期は異なりますが、だいたい20世紀前半までは批評が強い力を持っており、かなり辛辣な批評を書いていたと思います。しかし、アーティストのステータスと影響力の変化につれて、アーティストは批評家を批判を馬鹿にしてるかのように、続々と変なもの(批評家から見るとですが)を作ってきました。僕はバレエには詳しくないですが、たとえば美術において、批評家たちが思いもしなかったゴッホやセザンヌなどが美術のメインストリームに登場した時に、またデュシャン以来すべてが美術になり得る時代になった時に、批評家の批評はかなり無気力になったと思います。個人的には、勇気を持った批評家がどんどん現れて、失敗しながらもアーティストに辛辣な批評を投げてくれることを望んでいますが、現在はあまり見当たらないですね。

    2についてはわりと単純な理由だと思います。ある作品が発表されると、それに対する非常に細かい内容と印象までアマチュアの「批評」を、ネット上のブログやツイッターでよく見かけますね。これを批評と呼ぶか呼ぶまいかは個人の判断でしょうが、その内容の充実さや拡散の速さでいうと、プロとアマチュアの境界線をすでになくなったのではないでしょうか。プロとアマチュアをお金のことだけで分けるとしたら、その情報提供の為にプロの批評家がお金をもらって書くこと、またそれを求めて媒体がお金を払うことはこれからもあまり期待しがたいかなと思いました。

    3は、現在のいわゆる批評家に出来るほぼ唯一の仕事ではないかと思います。これを批評と呼べるのか、もっと頑張って論文でも書いてもらった方がいいのかは分かりませんが。リンクして下さった批評は、確かに中途半端だなと思いました。NYでこのような批評を求める人が多ければそれで良いでしょうが…

    長文のコメントで失礼しました。
    Chichiさんとみなさんのご意見を伺いたいです。

    (芸・Hyo)

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  3. chichiさんと同じく、舞踊専攻の者です。
    私はモダンダンスをしていて、コンペティションへダンス作品を出品する活動も行っています。公演の直後に批評家の方々とお話し、フィードバックを直接頂く機会も多くあります。本文の流れからは少し外れるかもしれませんが、実際に踊って、批評される立場からです。(半ば恨み?のようなものも入っているかと思います。笑)

    友人のダンサーと話していたのは、「批評家は自分で作品を創らないのか、また、創りたくならないのか」ということでした。
    このように思った理由は、特に身近なダンスの批評家の、舞踊家へのフィードバックという役割がかなり大きいと感じたからです。もちろん私たちのような、未熟な若手への批評だからかとも思いますが。批評家が、舞踊家へこれだけフィードバックできるなら、批評家自身で作品を創ったりダンスの先生になったりできるのではないかと思います。
    一方、批評家でありながらご自身で作品を創られる方もいらっしゃるようです。
    批評家の創る作品、観てみたくありませんか。

    (茶・みそ)

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  4. Chichiさん

    こんにちは。
    投稿を読ませて頂いて、「批評することとは」について考えてみたことを書いてみたいと思いました。

    ●バレエやダンスの批評について
    私自身もバレエやダンスをやっていたことから、ダンスのwebマガジンや海外のダンス雑誌の批評をちょこちょこ見たりすることがあります。
    ただ、文章の内容で満足することは少なく、掲載されている写真を通して、舞台の雰囲気を少し知ることが楽しみになっています。
    個人的には、レポート(ダンサーの様子・ダンサーのダンスの仕方・舞台の状況を伝えてくれる情報)と批評は区別して読みたいなという思いがあります。
    誰がでて、どの役になって、どんなダンスを踊っていたかという記事はよく見かけますが、そのダンサーの体の動かし方やダンスの振り付けがどのようなポリシーでつくられたのかを踏まえながら、長期的な視点で何かしらの可能性をもちうるのではないだろうか、という指摘はないだろうかと思ってみたり。
    ただ、バレエに対する批評の場合は、それは難しいかなとも思います。
    その表現が、今ここに置いてなぜ必要なのかは問われることはなく、やはり歴史的に築かれてきた技術や技法の改良や推進としての認識が強いかも。

    ●芸術全般の批評について
    レポートではなく批評としては、批評家がみた表現を、現代社会や現代の芸術の中で、どのように位置づけられるか。どのような示唆を与えてくれるものとしての可能性があるのか、ということまで突っ込んで書いてほしいと考えています。

    是非、他のみなさんの「批評について思うこと」に関する意見もきいてみたいなと思いました。

    (芸・kalinga)

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  5. みなさまコメントありがとうございます。なかなかお返事・感想等を書けなくてすみません。
    気になったことを簡単にまとめてみました。一応みなさんのコメントに対応した形でお返ししていますが、内容はつながってることもあると思うので、全部呼んでいただけたらいいかなぁ、なんて思っています。

    先生>おっしゃる通り、一回性の時間芸術だから難しいところはあります。それでも、やはりその一回性を無視するようなものを批評として出すのはどうかなと思ってしまいます。良くても悪くても、そこが舞台の醍醐味なわけですし。回数見てるとにぶってしまうのもわからなくもないのですが…

    hyoさん>
    1に書かれているような、アーティストと批評家の連関のようなものがもっとあったら素敵なのに、とわたしも思います。いや、多分あるんでしょうが、なかなか理想という形にまでは至っていないのだろうな、と思います。最近わたしは美術系のものは疎遠がちなのですが、ダンスにおいては、hyoさんの次にコメントしてらっしゃるお茶大のみそさんに聞いてみようと思っているので、面白いことが分かるかもしれません。(みそさんプレッシャー笑)
    わたしもちょっとNYT読者一般が何を求めているのかはわかりませんが、実はこの批評家、以前にも同じような批評文をNew York City Balletの公演についても書いていました。確かにシーズン中同じ作品を何回もみると書く気が失せるのかなという気もしますが、ダンサーやパフォーマンス自体には一切触れず、作品論(や振付家の偉大さ等)に走るという記事がありました。それに対して(そのパフォーマンスに出ていたかは覚えていませんが)NYCB所属のダンサーが「信じられない!」とコメントしていました。先生へのコメントにも書きましたが、舞台なら一回性を大事にしたものにしてほしいです。他のことを書きたいのだったら本でも出せばいいじゃない、と思ってしまいますよね笑

    みそさん>わたしも「そんなに言うなら批評家が創ってみろ」と言いたくなる気持ち、わかります笑。わたしは踊ってはいるけれど、みそさんのようにコンペや批評家がくるような場で踊ることはありません。わたしは別に評論家になりたいわけでもないし、その輪の中に入ることもないと思うので、いくつか質問があります。
    ・みそさんが複数の批評家さんからコメントを受けているかどうかわかりませんが、それらが参考になった、というか、上でhyoさんが書いてらっしゃるような理想の関係のように感じられるときはありますか?(いつもでなくても)
    ・その中でこの人のことは信用できる(ダンサーという、いちアーティストとして)という批評家さんはいらっしゃいますか?
    でもやってる側からすると、「踊らないくせにえらそうに!」って思うような気持ちがわくのはわかります笑笑 それ言ってしまったらおしまいですが。

    kalingaさん>批評とレポートの違いですが、実際読み終わってみないと批評かレポートかわからないというケースもあると思います。やはり批評もレポートのようなところがあって成り立つわけですし(文章の構造として?)。kalingaさんのおっしゃるように、バレエに対する批評はたしかに難しいですね。最近はいわゆるコンテンポラリー・バレエのような作品も増えてきているので、そういう意味では厚みの増している批評文もでてきているのかなとは思います。先日、確かNYTでAmerican Ballet Theatreの海賊の批評(http://www.nytimes.com/2012/07/04/arts/dance/le-corsaire-from-american-ballet-theater.html?_r=1)を読んだのですが、現代における(から見た)海賊という作品についてという視点も含めて書かれていて面白かったです。2世紀前につくられた作品は今にあわないものもでてきますしね。



    ながながと失礼しました!
    (茶・chichi)

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  6. 批評って考えてみると難しいですよね。
    椹木野衣の美術批評や片山杜秀のクラシック批評は作品を見る・聞くより批評の文章の方が読み物として単純に面白かったり、浅田彰の手にかかればどんな作品も現代思想(と博学的な知識)で斬れないものはなかったり……

    批評の内容(役割ではなく)をざっくり考えてみると、
    まず作品の形式/内容、作家/鑑賞者(受容者)、通時性/共時性といった見方があると思います。
    作家が何を描くか(内容)よりどのように描くか(形式)を考えた時代もあれば、
    鑑賞者が何(意味的なもの)を読み取るかではなく、純粋にどう見えているかという現象学的なものが注目されたり、
    内容の中でもリアルなものがいいとされた時代とロマン主義的な鑑賞者の想像力を大事にした時代もあり、
    同時代性や社会的批評(ある芸術作品が生まれるのはその時代の社会の反映であるというような)もあれば、
    美術史のための美術(ある様式の否定を繰り返していくこと)という通時的に考えらることもあり、
    現代ではおよそ脱構築的(僕がこんなふうに体系的にしてしまうものをズラしていく)批評や作品があるのでしょうか。

    そう考えた時に、hyoさんのおっしゃるように、アーティストに極端とも言えるくらいの挑戦的な批評というのがいっぱい出てきてもいいんだろうなと思いました。それが議論を生んでいくこと自体、アーティストが望んでいることじゃないでしょうか。
    つまんないと感じたら「つまんない」と、「面白かったら面白い」と、そこからスタートする批評(なぜつまんなかったのか/面白かったのか)がわかる方が、批評家自身アーティストたり得てある批評スタイルが生まれていくような気がします。

    そう考えた時に、「自分にとっていいアート(作品)/悪いアート(作品)を判断する価値基準ってなんだろう」ということが
    私にはものすごい難題としてつきつけられます。

    それと少し思い出したのが、私の油画の友人で、彼は「ものをつくらないやつに何も言われたくない。」と言っていたのが印象的でした。アーティスト自身が充分に社会に対して戦略的で、批判(批評)的である以上、もの書くだけの批評家ってたしかに必要ないのかな、とその時は一瞬思ってしまったのですが、批評(鑑賞者)なくして作品は成り立たないと、やはり思い改めました(笑)。

    この批評家の言うことが正解!っていうもの(ある種の権威)がおそらくない時代なので、
    (それでも専門家はこれが今必要なアートだ!ということを見抜いていかなければならないのですが)
    ずるい言い方ですが、批評は多様であればいいと思ってしまう学部生の考えでした。
    多様な批評が生まれない作品はむしろダメとも言えるかもしれないです。
    (だからこそ、私の投稿記事でアートプロジェクトの批評を考えたときも、
    素人の批評が重要じゃないかと触れました。プロの批評がいらないという意味ではなく。)

    (芸・風間)

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  7. お茶大のみそです。
    chichiさんの質問より。

    >・みそさんが複数の批評家さんからコメントを受けているかどうかわかりませんが、それらが参考になった、というか、上でhyoさんが書いてらっしゃるような理想の関係のように感じられるときはありますか?(いつもでなくても)

    一つの作品に対して、複数の批評家さんからコメントを受けることはあります。hyoさんのおっしゃっている特に1「アーティスト及び作品に対するフィードバック」に関しては、厳しい意見を頂くこともあったり、自分たちでは気づかなかったような作品の良さを発見して頂いたりもします。参考になることはたくさんあります。でも批評家からの評判に一喜一憂するのではなく、作品を作る場合は、自分たちがやりたいことを突き通すことにこだわりたいという思いもあるので、批評家さんからの言葉は一つの意見として、聞くところは聞き、聞かないところは聞かないというスタンスをとっています。笑 理想の関係といえるかどうか・・・アーティスト側の受け取り方次第ですかね・・・?

    >・その中でこの人のことは信用できる(ダンサーという、いちアーティストとして)という批評家さんはいらっしゃいますか?
    でもやってる側からすると、「踊らないくせにえらそうに!」って思うような気持ちがわくのはわかります笑笑 それ言ってしまったらおしまいですが。

    信用していると明言できる人はいません。もちろん、いつも作品を観に来てひいきにしてくださる批評家さんはいます。でも誰かのひとりの批評に寄りかかったりはしないようにしています。

    作品を公の場で発表するからには厳しい批評も覚悟しなければなりませんし、風間さんのおっしゃるように鑑賞者がいなければ作品は成り立たちません。まあ、「やってみればいい!」というのは完全に負け惜しみです!笑 その中でも、批評家をされながら実際に自身の作品を手がけている方がいるというのは、面白いなあと思っています。

    (茶・みそ)

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  8. 私も予てより批評の存在意義、役割に感心を持っており、卒業論文ではそこから派生し、戦後の実証的な音楽学を批判し、criticismについて著述したアメリカの音楽学者J. Kermanについて取り上げました。そのことについてはいずれ投稿させていただけたらなと思います。

    議論も深まっていますが、私は批評について、形式的なものにとどまるのではなく、率直で、ときには挑戦的なものであるべきで、むしろ、商業的な策略と結びついていたり芸術家への遠慮から中立的なものへと志向したりするべきではないと思います。
    しかし、批評が行われる際に、批評する側も受け取る側も「自分が普段どのような芸術に接していて、どのような基盤に則ってそう判断するのか」という意識が極めて重要なのではないでしょうか。そうでなければ、みなさんがあげてくださったような、「芸術家へのフィードバック」等の批評の役割は、うまく機能しえないように思います。(茶・ume)

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