こんにちは。
早稲田で金曜2限の文化政策を受講している21527です。
私は政治学研究科で政治的社会化について実証的に研究していまして、これは直接に文化とかかわるテーマではありません。文化(特に芸術)に触れることで政治的に発達する社会化も当然存在するとは思いますが、あまりに間接的な形態であり、分析することは困難でしょう。また私自身、皆様と比べると芸術に触れる機会があまりにも少なく、ここで私の芸術履歴について書いても、教養のなさが露呈してお恥ずかしい限りとなるのは間違いありません。したがいまして今回は、先のXenakis48さんが提示された、健康を盾とした文化への干渉(疑問のひとつ)について、私がこれまで学んできた法学に関連した感想を述べるにとどめたいと思います。
芸術に対して性的な「不健康」を裁判所が認定した事例として、日本ではチャタレイ事件が有名です。皆様もご存知かと思いますが、これは戦後まだ間もない1950年代前半の判決であり、芸術作品かわいせつ物かを判定するために、法的にわいせつの要素を示したものです。最高裁判所は「いたずらに性欲を興奮または刺激せしめ、かつ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する」という3条件を満たしたものはわいせつ物である、としました。この背後には、公共の福祉という聞き慣れた憲法用語があります。公共の福祉そのものについての定義は時代によって移り変わり、また実際に霧のようなものなのですが(具体的に挙げると、とんでもない種類になりますので割愛します)、だからこそ、国民の多数派がある種の公共の福祉を掲げれば、なんだって許されることになります。現在は、芸術に限らずとも基本的人権を直接に規制する理由として公共の福祉のみを援用することは難しいとされていますが、自民党憲法草案にはそのような解釈ができそうな文言がありますし、それについて国民は到底危機感を抱いているようには思えないので、単純に古臭い議論であると片付けることはできないでしょう。いずれにしても、基本的人権は天賦のものであるという欧州式の発想を実感的にもたない今日の日本の憲法論議においては、その国の文化の担い手である国民が制定ないし解釈する正当性をもった憲法が、文化を規制する免罪符となることに抵抗はないと私は考えています。その発想の源は「現実にあわせて改憲をしよう」という本来逆転している発想が容易に容認されていることがすべてであると思います。
以上からXenakis48さんの疑問のひとつめには、私個人の感想としてこう答えます。「現在の法技術的には、人命や健康が真っ先に保護法益として挙げられるのに対し、文化は保護法益として明確に定義されておらず、手続きを踏めば当然規制は正当化されうるし、それに対する反発も大きくならないことが予想される。ただし、この発想は『現在の国民の』法的な考えを基にしたものである」まったくの論理の飛躍で大変失礼しますが、法的規制でいうなら、私はこのように思います。感情的には怖い世の中であると思いますけどね。あとは日本における国民の健康志向の変化と、憲法論議に際しての因果逆転の理解次第ではないでしょうか。
早大21527
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