2012年7月26日木曜日

- 新しい(?)形の検閲についてー 写真展「重重-中国に残された朝鮮人元日本軍『慰安婦』の女性たち」の事件(?)から

こんにちは。 始めまして。私は東京芸術大学M1のjinと申します。暑い中、皆さん元気で過ごしてますでしょうか?まず少し自己紹介をさせて頂きます。私は韓国人の留学生で、学部(韓国の大学)では心理学を勉強しました。心理学を勉強したからか、理由は良く分かりませんが、現在、アートマネジメントの勉強をしながらも常に個人の問題や社会問題に目が向いてしまいかちです。研究したいテーマも簡単に言えば‘社会包摂’に関するアート活動です。(日本の様々な活動を知りたいので教えていただくと、とてもありがたいです。)
早くここに文章を書こうと思いましたがなかなか出来ず、今になってしまいました。前からみなさんが書いた文章を読んで, 同じ分野にもかかわらず個人の関心事や観点がこんなに多様なんだと感じて刺激も受けたし,勉強にもなりました。
私は一ヶ月前ぐらい,facebookを通じてこういうことを知られました。新聞にも記事化されたので読んだ 方々もいらっしゃるかもは知れません。
簡略に記事による内容を整理しますと,“名古屋に在住している韓国人写真家安世鴻さんの写真展、「重重−中国に残された朝鮮人元日本軍『慰安婦』の女性たち」が7月に新宿のニコンサロンで開催される予定だったが,写真展に関する抗議が殺到したことから、開催予定日の先月である6月になって突然′中止決定になった。またその理由は展示内容が政治活動に当たるという理由だった。安さんはこれに不服としてニコンが予定通り写真展を開催するよう求める訴えを東京地裁に起こし、6月22日東京地裁からニコンに写真展の開催を命じる 仮処分が下され,予定通り写真展が開かれた。” という一連の内容でした。
写真展が開かれた後にも色々なことが起きたと分かっています。
私は最初、この事件(?)に接した時, 率直に言わば,一人の韓国人として感情的に反応しました。
しかし, このようなことが特に芸術文化の分野ではどの国でも,あるいはどんなジャンル,どんなテーマを問わず発生するのではないか!ということを悟った(?)ので、少し違う観点で私が感じたことや気になったこと などを書いてみようと思います。(たくさんコメントしてください。! 私が思いもよらなかった部分を共有できたらと思います。)

 
まず, 私がこの事件(パッと思いつく言葉が無いので事件といいます。)を知って,最初に思ったのは今の時代で‘検閲’は誰によって行われているのかということです。既存で‘検閲’はたいてい国家や公権力によるもので, それによって‘表現の自由’は抑制, 抑圧されて来たことは世界史の流れで簡単に見られます。現在には憲法第21条で検閲を禁止,‘表現の自由’を保障させているし, 今度の事件でもその憲法に基づいて,東京地裁から写真展を予定通り開催を命じる処分が出たと考えられます。
国家は表現の自由を保障させているのに比べて,今度の事件で見れば, ‘ニコン’という企業やその企業に圧力をかけた‘団体あるいは市民’が‘検閲’の主体として機能しているのではないでしょうか?
現代社会においてはどうやら, 国家や公権力による検閲よりは企業や団体, すなわち社会的に権力を持っている誰かによる‘検閲’がもっと行われているのではないでしょうか? そうだとしたら芸術,創作活動に対する‘検閲’はいつも行われていると見られます。(実際にこの事件が起こって,写真家たちの間では本当に,安さんの写真展がニコンによって中止になったら, これからニコンサロン(権力者)で展示をしようとするアーティスト (非権力者)らが自分の表現が歪曲されたり、抑圧されることになることを憂慮する声が多かったです。)
“それが事実だ。”(つまり, 社会的権力を持った企業や機関による検閲が存在する。) と言ったら, アーティストとそういう表現者や表現活動を企画, 運営をする側に要されることは何でしょうか?私が思ったことはどんなにその活動, あるいは作品の価値を普遍的に,一般的なことにさせるかについての洗練されたデザイン(設計ですかね?)が必要なのではないかと思いました。
今度の例をみると,‘韓国人‘写真家が政治的色が多いテーマ扱って(そのように思われたから),‘日本’で展示をする際には反発があることがもしかしたら当たり前なのです。(写真家の本来の意図でこのような反発が起きるのを願ったし,それによる波及を狙ったことだったら,今度の展示やその結果はとても成功的だと判断されますが, もしかそうではないと言っても,このような一連の過程で‘写真’が持っている影響を改めて感じることができます。)
そうだとしたら,この写真展が追い求めること,価値が何なのかを見せることに対するデザインが充分に設計されたらどうだったでしょうか?写真家である安さんはあるインタビューでこう述べました。
“慰安婦の問題は日本と韓国だけの問題ではない。性の問題は世界の戦場で今もある。歴史的な反省と評価がなければ過ちは繰り返される。」私はこの言葉にまったく同感します。そうだからこのような彼の意図あるいは価値観がみんなと共有できなかったのが残念で,このような面から彼の活動や価値をどのような形で 見せるのかが共に設計されなければならないのだと感じました。
必ずしもそれが,アーティストがすべきことではないが,少なくとも企画,運営をする立場では必要ではないでしょうか? 連れて,表現活動,芸術活動をするにおいて政治的見解を異にする,あるいは価値を異にする集団の圧力に現場ではどんな対応が必要でしょうか?? これはただの質問ですが…(現場経験が多い方のアドバイスを…)
文章をまとめようと思います。
事実, 私はこの写真展に直接に行って見てないため,その内容がどうだったかについては言えないですが,この写真展をめぐって起きた裁判と日本国内の反応,またそれによる韓国内の反応,また国内外のアーティストたちの反応などを記事とSNSで見ながら,‘写真展’というのが及ぼす影響(個人と社会に及ぶ影響)とそれによる結果がどうか新しく分かりました。
個人的には,これから現場で活動をして,その活動の価値をきちんと考え、みんなに知らせるためには非常にたくさんの勉強をししなければいけないと言う決心をするようになりました。
それでは, 今日は以上で、また書きたいことはありますが、次回に書けたらと思います。
コメントよろしくお願いします。

 
芸大 jin
参考記事 

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