2012年7月5日木曜日

アートプロジェクトの現場から

当事者の時代へ…



はじめまして。東京藝術大学学部3年の風間と申します。
(「芸・風間」でコメントします。)
熊倉研究室でアートマネジメントを専攻しています。

私は茨城県にあります取手アートプロジェクト(TAP)にて
「半農半芸」というプロジェクトに関わっています。
取手市の重要な産業であり、また文化でもある”農”に
アートでアプローチしてみようという単年度スパンではない
まずは10年という長期型プロジェクトです。

今現在、壷焼きイモと養蜂がスタートし始めましたが、
2年目にして いまだ立ち上げ期にあるプロジェクトです。
(概要:http://www.toride-ap.gr.jp/hannohangei/?p=274)

その中で私は、ディレクターの岩間賢さんの考えることを翻訳し、
メンバー内で共有し、また外への発信という、
「言語化」のプロセスに大きく関わっています。
あとは研究会や勉強会などの企画も行なっています
(自治体文化政策論でよく言われるような「市民の醸成」を
私は単純に、市民=考える個人ととらえ、企画しています。)

以下、これまで私が書いてきたブログです。
半農半芸 構想について↓
http://blog.toride-ap.gr.jp/none/2011/0227-3074/

3.11以後立ち止まってしまったことについて↓
http://hnhglecture.blogspot.jp/2012/03/blog-post_28.html


プロジェクトとは別に、ゼミでの研究としては
アーツカウンシルを扱おうと思っており、
また、現在国家公務員の試験勉強中でもあります。

芸大の偉そうでプライド高い小難しい奴かというとそうでもなく?、
社会不適合で効率よく生きられない生意気なやつかと思います。


さて、タイトルに関してですが……
端的に言ってしまうと主観性と客観性のジレンマです。

アートというのはその性質上、差異化・個別化の作用があり、
一般化・普遍化の難しい曖昧な文化的ニュアンスを扱うもので、
しかし、それでも社会に対するアカウンタビリティは重要で、
だからこそアートマネジメントなるものがあると思っています。

アカウンタビリティの材料として、
単純に入場者数や売上げ、
野外芸術祭による経済波及効果などの定量的なデータから、
希薄化していた地域内の交流の活性化や
健全な青少年の育成という定性的なものを含めて
それらを文化の手段的価値と呼びます。
(参考『Cultural Value and the Crisis of Legitimacy』John Holden)

しかし、手段的価値(客観的なもの)を求めることを自己目的化していくと、
よく言われる「役に立つアート」に価値があるという罠にハマります。

アートの本質的な価値
=小林先生がよく「アートはその人の人生を豊かにするもの」とおっしゃるような価値は
やはり主観的なものです。
主観的でしかあり得ないと思います。

(中川幾郎先生の『分権時代の自治体文化政策』の中でも、
行政法・行政学が抱える思考の転換のひとつとして
客観主義から主観的感性の重視をあげています。)

手段的価値も重要、しかしそれに偏向せず本質的価値を見失ってはならない
というジレンマこそ、主観性と客観性のジレンマであり、
また、アートプロジェクトの中で何かを企画していく上での
アーティストのやりたい(やろうとする)ことと
それを社会的な意義としてどう位置づけようかという
アートマネジメントが抱えるジレンマに似ています。


そしてそれは当然のように、
アートの現場を記録し発信する上でも同じ葛藤が起きるんですが、
ブログやTwitterという個人の発信が容易なツールにおいては
他者を意識した自分の「主観」が自然と現れやすいものです。

ディレクターの岩間さんは半農半芸メンバーに
「とにかくなんでもいいから半農半芸に関わっていて感じたこと、
面白い本を見つけた!でも納得いかないことでも
なにかあったらブログにアップしてくれ。」
と、私に限らないさまざまな個人に記録や発信を委ねます。

多様な主体(主観)の集合を見せようとしているのだと思います。
(そうは言ってもあまり更新が進んでいませんが…)


結論に持っていくのが難しくなってきましたが、
「批評」というラベルをつけたからには
批評について述べたいんですが、、、

「この作品は現代社会のこういうことを表している」という知的なコンセプトに触れ、
ついでに現代思想的な理論をどこからかひっぱってきて批評するものから
「この作品は町のおばちゃんたちが毎日云々…」というプロセスを追った
ストーリー的な批評などさまざまですが、
やはり著名な批評家や美術史家が批評=評価するのが一般的です。


それよりも、特にアートプロジェクトにおいては、
岩間さんが狙うような個人の主観的・当事者的批評(もの書き)が
他者へなんらか共感・違和感を与えることにも
大きな価値があるように感じています。
(参考:日本型アートプロジェクトの歴史と現在
「社会×アートプロジェクト」p30
http://www.bh-project.jp/artpoint/program/tarl2010/images/rl/archive/open01-vol6.pdf)


さらに、映像作家の田中功紀さんも東日本大震災をふまえ
「他者の経験を自分のものとして引き受けることはいかにして可能か」
ということをテーマにされています。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120705/art12070508280004-n1.htm)


時代はまさに『当事者の時代』(佐々木俊尚)でしょうか。









3 件のコメント:

  1. 単純な主観と客観の話でもないのですが、芸術の価値評価が主観的な域から出ないのは、そうだと思います。ただ、私が所属している文化資源学専攻というところは、その主観的に思える価値を、客観化していく、あるいは価値付けをしていく作業をするところなのだということを改めて思いました。一つ一つの作業は膨大な時間がかかりますし、手間もかかりますが、おそらく研究をしたり学問をしたりすることは、主観性と客観性という二項対立を越えるためのプロセスなのではないかと思いました。
    (M.K)

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    1. コメントありがとうございます。
      自分でも「主観/客観」という高校生の覚えたての評論用語でまとめているのが、書いていて気持ちが悪かったのですが、コメントいただいてすこしスッキリしました(笑)。

      「個人個人が価値を発見していく、社会がその価値を認識していく」という営みは
      たしかにアートにとって重要な気がしました。
      (芸・風間)

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  2. 風間さんこんにちは。投稿をみて漠然と考えてみたのですが、関係なかったらすみません。芸術がそもそも定義不可能で、個々人によりその作品に対する捉え方や感じ方が違うため、何を以って芸術とするかいうことまでを考えると難しいです。ただこれは鑑賞者に限られるかもしれませんが、芸術は損得観念で捉えるものではないということだけは確かであると思います。また、芸術が何らかのことに対して有用であるならば、それは人間の志向する過程を垣間見るには有用である気がします。鑑賞とは鑑賞者が作品を通し芸術家と対話をすることが本来的なあり方と教わったことがありますが、批評も同じような面があるのでしょうか。同じ痛みを共有することが共感であると聞いたことがあります。でも対話は必ずしも共感ではないですよね。作品に対する感じ方がそれぞれで異なるように究極的には本人と全く同じ経験をするか、本人になってみない限り永遠にわからないのかもしれませんよね。難しい問題です。(茶A.O)

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